オレの天使

 夏。
 雨の多い、ジメジメした嫌な季節の日曜日。
 睦月むつき修也しゅうやは生死の境をさまよっていた。
 ただ別に、何か重大な病気に侵されているというわけではない。ただの風邪だ。悪質だが。
 両親は昨今では珍しく、休日に二人で出かけており、高校生だからまあ大丈夫だろうと、苦しんでいる一人息子をほったらかしと来た。
 霞む視線の先の体温計は、『四〇・〇度』という恐ろしい数字を叩き出している。昨日の夜より二度も上がっているではないか。
 朝のうちはマシだったが、昼になって測ってみるとこれだ。
 情けないことに、ベットでうーうーと唸り続けることしかできないでいた。
 やばい……。これはマジでやばい。
 もっとも、こうなった原因には心当たりがある。
 修也には想い人がいるのだ。
 相手は近所に住む腐れ縁の少女。いわゆる幼馴染というやつだ。
 名前は雨依うい。フィルターがかかって贔屓目で見てるかもしれないが、そこそこ美人だと思う。
 少し天然が入っており、そんなところも可愛いなー、と思ったりする。
 中学校、高校と同じ進路を進み、毎日とはいかないものの、たまに通学路で出くわしたら一緒に登下校するくらいには仲はいい。
 普段はそんなことはないのだが、彼女に関したことになるとどうにも奥手になってしまう。もう高校二年生にもなるが、未だに想いは伝えられずにいた。
 彼女が原因とは言ったものの、修也をここまで苦しめているのは、夏によくある突然の豪雨のせいだ。
 天気予報も役に立たず、日本国民は大いに困らされたと思う。
 雨依もそのうちの一人で、降りしきる雨に呆然としているところに、マメに折り畳み傘を常備していた修也は、『傘、貸してやるよ』と傘だけを手渡し、雨依の反応すら見ずに雨の中に突貫したのだ。
 結果、今朝起きたらこのザマだ。
 あの時はカッコつけて言っちまったが……こうなったら、オレがバカみたいじゃねーか……。
 意識が朦朧とする。まともに立ち上がるのもキツイ。
 これは……助けを呼んだ方がいいかもしれん。
 のそのそと手を動かしながら、なんとかスマートフォンを掴む。
 救急車を呼ぶか……? いや、さすがにそこまでは……。でも……。
 そんな小さいことにしばしためらっていると、いきなり着信音が鳴り出した。
 相手は……雨依だ。
「……なんで、あいつが」
 よりにもよって、というやつだ。
 だが無視するのもどうかと思い、着信に応じる。
「……もしもし」
「あれ? ごめん、間違えた! ……って、なにあんた、声死んでない?」
「あぁ……ちょっと、体調崩しちまってな」
 お前のおかげで、と心の中で付け足す。もっとも、自分が勝手にやったことなので文句も言えない。
「そうなの? バカは風邪ひかないって言うのにおかしいな……」
 雨依はあの時の出来事をすっかり忘れているのか、ひどい言い草でのたまう。
「熱はあるの?」
「……四〇度」
「よんじゅ⁉︎ あんた、それヤバいじゃない! もー、ちょっと待ってなさい!」
「え?」
 その言葉を最後に、ツーツーと通話終了の電子音が響いた。
 待ってろって……来るのか?
 詳しいことを話さずに物事を進めることの多い彼女だが、どうやら看病しに来てくれるらしい。
「マジかよ……」
 まさか、こんなことになるとは思いもしなかった。
 ……と、数分もしないうちに、家のチャイムを鳴らす音が聞こえた。
 あ……鍵。
 当然、鍵はしまっている……はずなのだが、ガチャリという音とドタバタ靴を脱ぐ音。
 両親はどうやら鍵を閉め忘れていたらしい。とんでもないことだが、今回に関しては僥倖だった。
 また、ドタバタした足音とともに、オレの部屋の扉が開く。
「おーい、大丈夫?」
「……大丈夫、じゃねえ……」
 そう言いつつも、せっかくきてくれたのだから寝転んで対応するのもどうかと思い、修也は体を起こす。
「あんた、朝から何か食べた?」
「いや……何も」
「そんなのダメじゃん。しんどくても何か食べなきゃ体力つかないでしょー」
 ごそごそと手に持っているビニール袋から何かを取り出す。
「突然だったから、家にあるもの適当に持ってきたけど……プリンとか、修也好きだったっけ」
「嫌いじゃないよ」
 実はそんなに好みではないが、当然言えるわけもない。
 すると雨依は、カップのふたをピラッとめくって付属のスプーンで一口サイズをすくうと、
「はい、あーん」
「なっ! ばっ、お前……!」
「どうしたの? ほら、あーん」
 他意はないのだろうが、平気でそんな大胆なことを行う彼女にオレは慌てて、
「き、気持ちはありがたいけど、自分で食えるから大丈夫だ!」
「そう? なら……他に何かしてほしいことはない?」
「いいのか……?」
「いいの。あんたは病人なんだから大人しくしてなさい」
「じゃあ……水を少し」
「水でいいの?」
「ああ、頼む」
「任せて」
 雨依は立ち上がって、部屋を出て行った。

 ……それから、水を持ってきてくれた雨依とたわいのない雑談をしていたら、気づけば一時間が過ぎていた。
 気分的にかもしれないが、だいぶ熱も引いたような気がする。
「あ、やば、もうこんな時間か」
 雨依は、部屋の掛け時計を見て驚いた表情になる。
「悪いな、休みの日にわざわざ」
「いやいや、あたしが勝手に来たんだから、あんたは気にしなくていいわよっと」
 と、急に顔を近づけてきた雨依は、
 ぴたっ。
 急におでこ同士をくっつけてくる。
 氷枕とは違った冷たさに、ビクッとしてしまう。
「うん。だいぶと下がってるみたい。顔色も良くなったしね」
 こいつ……またとんでもないことを平然と!
「一応、熱は何度?」
 とはいえ、相変わらずまったく気にしてなさそうな雨依に、修也は突っ込めない。
 それに、そういえばさっき、体温計が鳴っていた気がする。脇の下から取り出して見る。
「三七度八分だ」
「上々ね。あたしの看護が効いたってとこかな」
 お前、ほとんど喋ってただけじゃん……
 ……でも、一応いろいろとしてくれたしな。熱も氷枕とやらで下がったようなもんだし。
「その……まあ、助かった」
「助かったなんてまた大袈裟ね。大切な幼馴染が苦しんでたら、助けに来るのは当たり前よ」
 大切な幼なじみ、なんて。
 そんな風に表現されるとなんだか気恥ずかしい。
「……それに、あんたが風邪をひいた理由って、この間の雨のせいでしょ?」
 雨依はそう言いながらいたずらっぽく笑う。
「お前……覚えてたのか」
「あったりまえでしょ。カッコつけて、『困ってんだろ。傘、貸してやるよ』なんて言っちゃって」
「うわぁ……もう、やめてくれ……」
 恥ずかしい。死にたい。
 目の前で本人に言われると(しかも口調まで真似して)、死ぬほどの羞恥に襲われる。
「ごめんごめん。ほら、動くとさらに熱上がるよ」
 惨めにたしなめられ、ようやく落ち着く。
 くそ……これからは、傘を二つ用意しておかねぇと……。
 そんな見当違いのことを破れかぶれに考えていると、
「まあ、結果はあれだけど。——あの時のあんたは、意外とカッコよかったぞ。ありがとね」
 ころっと、持ってかれた。こんな風に言われて落ちない男がいるだろうか。
「…………気にすんな」
 たった一言答えるだけで、精一杯だった。
「さて、私はそろそろ帰るけど……本当に大丈夫?」
「お、おう。雨依のおかげで元気出たよ。こっちこそ助かった」
「うん。お大事に。あ、今は仕方ないけど、ちゃんと鍵かけとかなきゃダメだよ? 誰が入って来るかわかんないんだから」
 笑顔でそう言い残し、雨依はオレの家を去っていった。
 ぼーっとしながら益体のないことを考える。
 正直、雨依が来てくれるなら、我が家の扉なんていつでも全開にしてていいかもしれない。
 ……少し話はそれるが、巷では看護師のことを『白衣の天使』と呼んだりするらしい。チープな表現だが、今の修也にとって雨依は天使のように見えた。

「ありがとな——オレの天使」

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