十日間の魔法使い

プロローグ 眠れない夜を抱いて

 田舎の透明感って言って、伝わるかな?
 もともと言葉で語るものじゃないけれど、強いて言葉に表すならば身近な異世界だ。雑音に紛れた都会から、ほんの数歩だけ飛び出してみれば誰もが味わえる世界。
 そりゃあ地元の人からすればごく普通の世界なんだろうけどさ。
 僕にとっては、異世界だった。
 ましてや僕は今、病院なんていうダンジョンに閉じ込められている。
 娯楽に溢れた現代社会で一六年余りを生きてきた僕にとって、見て楽しむものが窓枠から見える緑葉だけというのはつらい。退屈だ。自分のせいでこうなってるとはいえ。
 だからちょっとばかし詩的なことを考えてしまうのもやむなしだろう。
 そして、ダンジョンの最奥で囚われのヒロインを見つけてしまうことも、しょうがないだろう。

 ……でも、そのヒロインは救いなんて求めていなかった。
 夢と希望を追いかけていた。

「卑猥な視線をぶつけないでくれるかしら」

 友梨《ゆり》はまるで、蔑むという言葉を凝縮したような目で僕を見る。
 たしかに鼻の下を伸ばしていたのは事実だし、彼女の肢体を注視してしまったのも間違いない。ただ、待ってほしい。齢一六の僕が同世代の女の子の薄着(ランニングシャツ)を見て、興奮しないというのも逆に失礼ってもんじゃないだろうか。
「……何やってるんだ?」
「日光浴」
 ぴしゃりと、それだけ言い放たれる。
 ご丁寧にまあおでこにくっつけていたサングラスを下ろしてキメ顔をしている友梨に、僕は少々呆れながらも言葉を返す。
「だからってこんなところで水着は……」
「いいでしょ、誰も見てないんだから」
 僕が見てるんだが。
「日光浴なら近くの公園とかですれば……」
「いやよ。人混み嫌いだし」
 あそこそんな人いないよ。
「肌、焼けるよ」
「焼けたいの」
 焼けたいらしい。
「というかせっかくだから……見せたいの」
 言っちゃったよ。
「そっか。なら、仕方ないか」
「ええ、仕方ないのよ」
 会話終了。
 ああ言えばこう言うを地でいく彼女に、食い下がろうとするのがそもそもの間違いだ。降参だ、という風にわざとらしく手を上げて、彼女の横に僕も寝転ぶ。
 べしっ。
 手刀が顔に飛んできた。痛い。
「なぜか、隣に並ばれるのは不快よ」
 文句の多い女の子だ。
 それからペシペシと頬を突いてくる彼女から仕方なく、一回転して距離を取る。雨晒しの屋上なんて汚いに決まってるのだけど、不思議と気にならない。
「逃げたわね、臆病者」
 一体どうすれば満足するのだろう、彼女は。
 僕はもう十分、満足しているのに。
 彼女に見つからないように何度目かの小さなため息を吐いて隣を見ると、そこには無骨なコンクリートのみ。白磁のような白い肌を太陽に反射させていた彼女はいつのまにか起き上がっていて、日差しに目を細める僕を見下ろしていた。
「ねえ、聞いているのかしら」
 彼女の表情には不機嫌の色はない。
 ただ、少しばかり寂しげな色のそれに、僕はうまく言葉を返せないのだった。

 僕と友梨の偶然の出会い。
 今から語るのは一夏の魔法の日々——うん、そう呼んでもいいはずだ。
 ボーイミーツガールとか、みんな好きだろ?
 みんなの世界は大きく変わらないけれど、僕の世界は大きく変わった、そんな一夏の冒険物語だ。

第一章 マイフレンド

 何度も言うが、華の高校生に取って入院生活というのはたいそう退屈なものである。
 真面目系クズを自称する僕のこと、受験がたった一ヶ月早く終わるというだけの理由で土曜日も授業がある私立高校を受けたことを後悔したこともあったが、まあ、慣れれば案外楽しいもので。
 入学してまだ三ヶ月も経たないとはいえ、ましてや自称進学校のお勉強コースとはいえ、それなりに充実した日々を送っていた(何より、知った顔ぶれはみんな仲良く同じ高校だったのも大きい。類友ってやつだな)。
 そして僕は、恋をした。
 いや本当に、人を初めて好きになった。初恋だ。
 吉田や浅井なんかに言わせれば初恋なんぞ幼稚園や小学校の先生に決まっているらしいが、そんなもん僕にはなかった。
 いや、どうだろう。ちょっとだけあった気がする。
 小学校の時か。何がきっかけかは忘れたけど、よく遊ぶ女の子がいて。本当になんのことはなく、仲が良かっただけなのだけど、気にはなってしまった。
 小学生だ。ガキだ。いくら大人がなんと言おうと、小学六年生は高校生から見てガキである。ひょっとしたら中学一年も怪しい。
 そんな時分の気になる女の子なんて、ちょっとした気の迷いだろうなんて考えていた。そこに愛などないだろうと。
 そして時間が経ち、卒業アルバムを見なければ顔も思い出せないくらいになり、高校生になった。
 自分は人を好きになることがないんじゃないんだろうかなどと、痛く謳ってみたりした。
 だから、衝撃だった。
 初めてこの人が好きだと。はっきりと。思えたのだから。
 これが恋慕なのだと。

「どーーーーーーーーーーして、言っちまったかなぁ」

 僕が好きになったのは、前の席の女の子だ。
 今思えば目立った特徴のない人だった。ちょっとマイペースだけど明るくて、何人かの友達と笑って休み時間を過ごしているような、普通の女の子。そんな、普通に可愛い女の子だったのだ。

『ごめんね。君をそういうふうにはちょっと、見れないかな』

 いきなり、ではないと思う。
 客観的に僕たちの関係性を見ても、悪い、とは誰も言えなかったと思う。
 それなりにたわいのない話をして、流れで連絡先を交換して、運動会では一緒に盛り上がって、…………席替えが行われたらちょっとだけ疎遠になるくらいの、関係。
 彼女を好きになったこと。これも一時の迷いなのか? いいや、確かに好きだった。彼女と話をするのが好きだった。
 彼女からすればなんてことない会話だったのだろうけど、僕からすればキラキラしてたんだ。
 二ヶ月で人を好きになるのがおかしいのかどうか、知らない。
 いつか聞いた両親の馴れ初めはといえば、お見合いだった。前澤の奴は二組の巨乳に一目惚れしたとか言っていた。同じクラスの橋本と石川は早速付き合ってるって噂だ。
 なので決して、珍しいことではないと思うけど。
 とにかくまあ、玉砕した。
 ちゃちな防衛本能が働いていたのか、告白した次の日は日曜日。一週間唯一の休日はただ憂鬱な時間を過ごしているだけで良かったが、時の流れは無情である。
 午後九時出勤の母に失恋を理由に説得できるはずもなく、絶望的な気持ちと面持ちで月曜日の学校へ。
 窓際後ろから三つ前、慕っていた女の子はいつも通りに座っていて、僕を見つけると、おはよう、と言って笑って。
 なんと、居た堪れなかったことか。
 その日も次の日も、その次の日も、ビクビクとしながら過ごしていたが、クラスの中心メンバーにからかわれたり、女子たちの噂話に僕の名前が挙がることはなかった。
 裏ではわからないけど、おそらく、彼女は僕の告白を自分の内側だけにしまってくれたのだ。
 それがわかって、より惨めになった。
 そこまで想ってくれて、なんで。
 自分が無茶苦茶でやばい考えなのはすぐに自覚した。彼女は何も悪くない。でも理屈じゃなく、僕が負った心の傷は深かった。
 次の日曜日、僕は家を飛び出す。
 誰にも会いたくなかったし、声を聞きたくもなかった。
 振り絞った最後の理性で引っ掴んできた財布の中身を存分に活用して、遠くへ、遠くへ。
 当てもなく彷徨い歩き、名前も知らない山へと登った。大して高い山じゃないが、人がいないところでどうにかして叫んでみたくなったのだ。
 結局、何を叫んだのかもはや覚えていないが、なんとかかんとか折り合いをつけて下山しようとしたことは間違いない。
 でも迷った。
 それはもう、遭難といってよかった。
 行きは良い良い帰りは怖いというやつで、頂上付近まで辿り着けたのはただただ運が良かっただけなのだ。
 財布には四、五枚ほどのお札が入っているが、文明が及ばない場所ではクソの役にも立たない。携帯はもちろん置いてきた。雨まで降ってきやがった!
 恋に続いて、初めて死を覚悟したものだ。
 自分は本当に死ぬのかもしれないと、本気で思った。
 …………たまたま登山者が発見してくれなければ、命はなかっただろうとお医者さんは言っていた。冷たい雨に打たれ続けた僕の体は低体温症になっており、かなり危険な状態だったようだ。
 病院で目が覚めた時は、体がだるいなーって感じで軽く考えていたが、面会にやってきた母さんに泣いて抱きつかれ、父さんにぴしゃりと怒鳴りつけられたことで、僕は事の大きさを実感した。
 そうして、気づく。
 死ぬ気があったわけじゃないけど、あのまま死んでいてもおかしくはなかった。
 でも、僕は生きている。
 生きてしまった。
 この世界に、まだ存在している。
 あの子に振られたまま、まだ。
「改めて何やってんだよ、僕は……」
 ひどく、憂鬱。

『最後まで 走り抜けて——』

 動いているのが不思議なくらいボロっちい病院備え付けのCDプレイヤーから、ひび割れた音が流れている。
 音楽はなんだかんだいい。
 なんとかフラットだったか。理論だなんだはよくわからないけど、脳を快楽物質で満たしてくれる手軽な手段だ。
 そうだよ。少しでも気分を上げてけ。
 じゃないと余計なことを考えすぎてしまうんだから。

「なーにをぼやいているのかな、少年?」

 不意に声をかけられて、びくりと肩が跳ねた。
「おはよう、ございます」
「うん、おはよう。まあ、もうこんにちはの時間だけどね」
 振り返ってみれば、仕切りのカーテンを全開にしている看護師さんがいた。
「…‥村上さん、何してるんですか」
「ん、お仕事」
「昼食の時間にはまだ早いと思うんですけど……」
 ちらと時計を見ると一一時半を回ったところ。昼食まではまだ三〇分ばかしの時間がある。
「ちょっと早いけど、脈と体温を測っておこうと思ってね。あとは……掃除?」
「なんで疑問系なんですか」
 体温計を脇に挟みながら、僕は口を挟む。絶対に軽くサボりにきたのだ、この人。
 大抵の看護師はまるで何かに憑かれているかのようにテキパキと動き回っているのだけど、僕を担当してくれている村上さんはどこかマイペースだ。年齢は二七歳らしいのだが、童顔のせいで僕と変わらないくらいに見える——が、その割には僕以外の患者には驚くほど事務的に接していて、ベテラン感が強いというチグハグ感。
 どうして僕には優しい——というかフランク?——のかと尋ねたところ、私、不幸そうな年下がタイプなんだ、と。
 なんともまあ、ひどい話だ。
「お、鳴った鳴った」相変わらず適当な言葉を吐き出していた村上さんは、体温計をすかさず引っこ抜く。「うん、平常だね。体はどう?」
「別に普通……ちょっとだるいくらいです」
「そっかぁ。まあ、それだけ喋れたら大丈夫大丈夫。あ、そうだ。君にお土産が届いてたよ」
 思い出したように差し出されたのは、お饅頭だ。地元の名産品らしく、艶のある餡子がそこそこ高そうな包装紙の上にプリントされている。
「君のご両親からだよ。患者に食べ物の差し入れは、ほんとはダメなんだけどね。まあ、若いからいいんじゃないかって、許可が出たよ。やったね」
「はあ、そうですか……」
 自分で言うのもなんだが——いや本当に——ヤマを超えた途端になんともいい加減な対応の病院である。それとも、普通にこんなもんなのかね?
 そしてもう一つ、いい加減な対応がある。
「これ、村上さんにあげます」
「え、なんでさ?」
「いや、だって……僕、餡子嫌いなんで」
 菓子折りは和菓子だったらなんでもいいってわけじゃねえぞ。
「わがままだなぁ」
 それはその通り。申し訳なくは思う。ほんのちょっとだけ。
「でも、腐らすよりはいいでしょう」
「だね。……あ、ナイショにしといてね?」
 当たり前ですよ、と追い払うように饅頭を彼女に押し付けた。
「ありがとうございます、と。…………ねえ、少年。お礼に良いこと教えてあげようか?」
「……なんですか、良いことって」
 正直、この時点で僕は悪い予感がしていた。
「ふふふーん。年上の女ばっかり見飽きただろう君には朗報だよ」村上さんは己のぷっくりと小さな唇に手を当てて、「——女の子、紹介してあげる」
「…………は?」
 嫌な予感、というには少しズレた感じもするが。
 彼女の小悪魔的な笑みは絶対にロクでもない提案に違いないことを示している。
「急に何を……てかこの病院に女の子なんているんですか?」
 まさか二〇代後半はまだ女の子だよとか言って同僚を紹介してきたりはするまいな。
「いるよ。いるいる。君と同じ一五歳くらいの」
「へぇー、奇遇ですね。高校生ですか?」
「うーん…………ま、そんな感じ。特別に珍しいことでもないんだけど、せっかくだし……」彼女はぐっと顔を近づけてきて、「興味ないかな?」
「興味……ねぇ」
 そりゃどんな顔かなぁ、くらいは気になるかもだけどさ……
 そもそも僕がここにいる理由が女関係の失敗なんだが?(かっこつけ) 女性恐怖症になってもおかしくないんだが?(ガチ)
「君がどうしてもっていうなら、一肌脱ごうじゃないかと思ってね」
「どうしてもってことは、」
「というよりもう既に君の話しちゃったから、会ってくれない?」
「はあ⁉︎」
 手刀を切る彼女に僕は思わず上体を捻り、背中を思い切りぶつける。痛っ……クソ、舌出したってもう可愛くないぞ! いや可愛いけど、それとはまた別!
「まあまあ、いいじゃないか、少年。どうせ経過観察で退院には一週間くらいかかるんだからさ。一夏のあばんちゅーる?ってやつを楽しんできなよ」
「んな、無茶苦茶なことが……だいたいその子は乗り気なんですか」
 村上さんの「遊び」に双方付き合わされているって地獄が展開されることも、十分に予想される。
「じゃないとこんな話しないよ」
 それにその子、と村上さんは、

「——仲間が欲しいんだってさ」

 いたずらにでもなく、言った。
 これだけはちゃんと伝えようという感じで。
「ちょっと付き合ってあげてよ」
「…………はあ」
 仲間……。仲間? 漫画でしか聞かない単語ランキング上位の単語だろ、それ。
「そんな難しく考えなくても大丈夫。話し相手になってくれるだけでいいから。……そうだね、君が同室のおばあちゃんを相手にしてるみたいにさ」
「ご老人と同級生じゃだいぶ口数が違うと思いますけど……」
 良くも、悪くも。
 気分が違う。
「…………友達……その子、入院して長いんですか?」
「……どうだろうね。私は担当じゃないから、そこは詳しくは知らないかな」
「そう、ですか」
 ……ん? でも村上さんって看護学校卒業してからここ一筋だって言ってたよな? 自称情報通だとか自慢してたくらいだし……、
 そんな疑問を発声する前に、やば、そろそろ行かなくちゃ、と村上さんは踵を返した。
「引き受けてくれて何よりだよ。今日は無理だからまた明日に紹介するね」
「えっと……まあ、はい、わかりました」
 断じて引き受けてないが、村上さんは一度決めたことを撤回する人間ではないと、ここ数日の短い付き合いで悟っている。
「じゃあ私、仕事に戻るから。楽しみにしててね〜」
 ひらひらと手を振って彼女は去っていった。
 ふむ。まあ落ち着け、僕。村上さんも言ってた通り、せいぜい一週間くらいの付き合いだし、適当に話を合わせればいいだけだ。ここで妙な期待をするほど、愚直な奴でもないし。
 よし、今日は不貞寝だ。
 明日のことは明日の僕に任せよう。
 今日ばかりはスマホがなくてよかった。改めて女の子との話し方について調べたりとかしかねなかったから。
「——あ、そうそう」
 と、突如として村上さんが首だけ振り返って、言った。
「恋愛の後悔は恋愛でしか解決できないから、頑張れ——少年」
 おい。
 もうどうすりゃいいってんだよう。
 
 相対性理論とかいうものを考えた奴は天才なんじゃないだろうか。
 いや間違いなく天才だ。
 まどろみの世界に心地よく浸っていた時間は一瞬にして過ぎ去ってしまった。
 昼。屋上。
 まず二言を、村上さんは今朝方伝えにきた。行かないと怖いからね、という付け足された言葉だけは忘れたいと思っているが、忘れたいことこそ強く脳裏に刻みつけられるのが常だ。
 ってなわけで、寝過ぎて逆にだるい体を必死こいてぶら下げて、オフホワイトのペンキが剥げかかっている階段を昇る。たった数日の運動不足で、如実に体力が落ちているのを感じる。
「ふう……」
 扉の前で、一息。
 この先に、俺なんかと友達になりたいという女の子——三里友梨……ちゃんがいるらしい。
 どんな感じの子なんですか、という僕の質問に、村上さんは「会えばわかる」の一点張り。初恋のおかげで対女性におけるコミュニケーション能力はそこそこ磨かれた僕であるが、それでも初対面の女の子との会話ってのは緊張する。
 何から話すべきか。挨拶? 趣味? どこの学校? …………なんで、入院してるの、とか?
 ぐるぐると話題を思考する。
 差し当たっては、扉の明かり窓から屋上を覗いてみたりもしたが、ぼやけてよく見えない。役立たず!
 ……とはいえ、文字通り踊り場で遊んでいても状況は良くならない。屋上はもちろん誰でも利用できるので、誰か後から上がってきて気まずい思いをする可能性もある。
「……よし」
 扉をノックする。
 ノックの正しい数は二回だったか、三回だったか。
 迷いに迷ったそれはきっと不自然な音色に違いなかったが、反応も何もない。そもそも相手に聞こえなかったのか——
 再び思考の波に揉まれた直後、
 バタン!
「づっ!」
 扉が勢いよく顔面に直撃した。
 当然のように尻もちをつき、鼻骨が折れたかと感じるほどの鈍痛に悶えていると、全くもって悪びれのない声が降ってきた。

「あら、ごめんなさい」

 そして、涙滲む僕の目に最初に飛び込んできたのは床につかんばかりに長い黒髪だった。そんな黒を追って視線を上へと向けると、やはり言葉とは裏腹にツンとした表情を浮かべる少女。
「あなたが三里友梨さん、ですか?」
 迷うまでもなく「さん」がつく。態度だけではない。病衣に包まれたその体は折れてしまいそうなくらい細いのだが、モデル並みの高身長が相まって妙な迫力があるのだ。
「そうよ。あなたこそ——私の様子をじろじろと伺っていた変態さんこそ、なんていう名前なのかしら?」
 …………。ほう。
「嫌、だなぁ。人をそんなストーカーみたいに」
「ストーカー? なにもそこまで言ったわけじゃないけど……そうね。ドアの窓越しに透けているとも知らずに彷徨き回っていた男の人は、たしかにストーカーと読んでいいかもしれないわ。先制攻撃は正解だったわね」
 全部、バレていた。いやね、二〇分くらい悩んでたのは事実だけども。
「お、落ち着いてください。不審者全開ムーブしててなんですけど、僕は村上さんを通じてあなたに会いにきただけで——」
「知ってるわよ。北野《キタノ》……優《ユウ》くんでしょう」
 表情こそ変わらないものの、スッと、彼女からトゲトゲした雰囲気が取れた。真っ白に限りなく近い手を差し出してくる。
「不幸そうな顔してるって聞いてたから、すぐわかったわ」
 その手を普通に掴み損ねた。
「僕ってそこまで幸薄そうな顔してますかね⁉︎」
「額に薄幸って書いてあるわ」
「どんな罰ゲーム⁉︎」
 圧倒的な距離感の近さに、ふと緊張が取れていることに気づく。なので、一度掴み損ねた手を取るのに抵抗はなかった。
 諸に人肌を感じつつ、僕は立ち上がる。
「…‥なに」
「いや、別に何も」
 つい掴みっぱなしになっていた手を慌てて離すと。
「じゃあ、こっちにきて」
 彼女の声に連れられ、僕は扉をくぐる。
 照りつけてくる日差しはどうにも眩しすぎたけど、同時に吹き付けてくる生暖かい風にどうしようもない開放感を感じた。
 外に一歩、出るだけで。蝉の声が倍々に膨れ上がった気がする。
「気持ちいいな」
 ふと声が漏れる。
「そうね。生きてるって感じがする」
 言って、屋上の中央を飾らず、歩いてゆく少女。
 彼女の倍はある金網の柵のその下、ぽつんと木製の椅子が落ちていた。
 表現的には正しくないかもしれないが、無骨な屋上の中にただ一つあるそれは、突如として空から落ちてきたもののように見えたのだ。
 と、変な空想に耽って、はっとしてみると、少女——友梨は椅子に座っていた。
 その《《見た目以上に痩せ細った手首で》》、小ぶりなマイクを僕に向けて突き出して。

「北野くん、『ZARD』の曲はよく聴くの?」
 
「へ?」
 話が吹っ飛びすぎて、間抜けな声が飛び出したのも無理ないと思う。
「村上さんが言ってたの、聞いたわよ。病室でCD流してたって」
「う。うん、確かに暇すぎて聴きまくってたけど……」
 母さんが無駄に送ってきて仕方なく聴いてたやつ……とは言えないよな。別に全然、好きな曲多いからってもあるんだけど。
「私、とても好きなのよ。彼女たちの曲。上手く言えないけど、心に染み込んでくるっていうか」
 先ほど茨の発言をしていた人物とは思えないほど澄んだ瞳で語る少女。
「わかるよ。すごく、こんな病院なんかにいる時に聞くと勇気づけられるよな」
「ええ。本当にその通り」心なしまでもなく弾みゆく彼女の声。「北野くん……高校一年生なのよね」
「そうだけど」
「まさか同い年で、ZARDが好きって人に出会えるとは思ってなかったわ」
「はは、それは違いないかも。僕の同級生だって一人も知らなかったしなぁ。……あー、でも、『負けないで』だけは聴いたらわかるって奴が多かったな」
「有名だものね。メディアで大々的に使われてたら知名度だけは上がるでしょうし。そういう私も、あの曲が一番好きなんだけどね」
「それも違いない! なんだかんだで、やっぱり一番あれがいいよ」
 メロディラインと歌詞がダイレクトに伝わってくる歌を、僕は他に知らない。
 うん。これだけすらすらと「好き」が出てくるのだから、普通に好きなんだろうな。だから聴き続けてた。
「ええ、ええ。『揺れる想い』とか、『永遠』とか……あと、『Listen to me』も特に好きね、私は。どれも響く歌詞が多くて……けど、どうしても『負けないで』に戻ってきてしまうわ」
「おお、名曲揃い! シンプルすぎていい、みたいな。わかる……ってか、本当に好きなんだね、誰の影響? 自分からハマったの?」
「私は……母からよ。………母が遺してくれたCDを、ずっと聴いていてね」
「のこし、て……?」
 言葉の端に感じた違和感は、思いのほかすぐに氷解した。
「えっとその、……」
 一緒一緒、僕も母さんからだよ、とは言えなくなってしまう。
「ごめんなさい、今のは私が悪いわ。ただ、ね。思い出深いアーティストだってこと」
「そっか。うん、あ、そうだ他には、どんな曲聴いたりするの? 選曲とか年代的に大黒摩季とか?」
 深く触れないよう、当たり障りのない言葉を僕は選んだ。
「それも聞くわね。けど……北野くん、少し勘違いしていないかしら? ZARDが好きだとは言ったけど、RADとかback numberとか、そういうのも好きよ?」
「そりゃ……なんとなく昔の曲が好きなのかなって思うじゃん?」
「そういうものかしら。まあ、普通にZARDが一番好きなのだけど」
「結局か」
「結局ね」
 いつのまにか、僕らは笑い、話し合い、打ち解けていた。
 いやまぁ、彼女の表情は大して変化なかったけれど、弾む会話のそれで容易に感じ取れた。
 座る少女と、立っている僕。不思議な空間。
 熱ささえ気にならない。
「三里さんはさ、僕がZARDが好きだって聞いて、声をかけてくれたの?」
 幾許かの会話を終えて、そう聞くと。
「友梨よ」
「え?」
「さっきからむずむずするの。友梨って呼びなさい」
 有無を言わせない、強い口調。
「オーケー、ゆ、り。…………じゃあ僕のことも、」
「《《北野くん》》に声をかけた理由は、もう一つあるわ」
 僕の提案(にすら届いてないもの)は無情にも圧殺されて。
「これも村上さんから聞いたのだけど——あなた、ギターが弾けるのよね?」
「うーん……、弾けないといえば嘘になるけれども……」
 弾けると言っても嘘になるかもしれない。
 中二の夏、万人の男子中学生が浅はかな考えに染まる時期、僕も例に漏れずかっこつけだしたいと考えた。その手段として選ばれたのがギター。
 なけなしの小遣いをはたいた老舗っぽい楽器屋での買い物は、そう遠い記憶ではない。
 二ヶ月もしないで練習をほっぽり出して、安物のアンプに線を通したのも二、三回という有様だったが、流行りのJ-POPを軽く弾けるくらいにはなった。それでも、とても人様には見せれないクオリティだけれど。
 で、次に思い出すのが村上さんとの会話だ。
『女の子との縁に乏しい少年はさぁ、趣味とかないの? やっぱり今の子はソシャゲとか?』
 ここでソシャゲという単語が出てくる村上さんも、大概若い。
 それはそれとして掴みどころのない性格を除いた彼女は大変美しい異性なのだから、「そっすねー、だいたいスマホいじってます」ってのも、芸がないだろう?
 結局かっこつけようとするのは変わってねぇー。
「うん、弾けるかな。曲に合わせる程度なら」
「合格、よ」
 想定以上だわ、と。
 その言い草はオーディション番組の大物さながらの友梨は、すくっと立ち上がってこう言い放った。
「あなたに私を手伝わせてあげる」

 自信満々に言い放つ友梨に。
「へぇ、何を手伝えって言うのかな」
 ちょっとだけ楽しそうだと思った自分がいた。
 こんな閉鎖空間に閉じ込められた青少年が女子に手を差し出された日にゃ、その手を取らないわけがないだろう。
「簡単よ。私のバンドユニットに入って欲しいの」
「ええ⁉︎」
 思わず驚きの声が出る。
「ええ、じゃないわ。私は本気よ」
「いやいやいやいやいや! バンドユニット? 待ってくれ、ただの素人だよ⁉︎」
 あれ、おかしいな。せいぜいちょっと弾いてみてくれないみたいな話だと思ってたんだけど⁉︎
「別にいいわよ。触ったことがあるだけ上等。もともと私が手取り足取り教えるつもりだったし」
「教えるって、あの、どういう……?」
「そのままの意味よ。コード進行とか、曲の構成とか、アレンジとかも一応……あとはコーラスの歌い方ね」
「なんだよ、結局全部じゃないか」
「当然でしょう? そもそも、あなたの歴はどれぐらいのものなのかしら? ギターをやって長いの?」
「えっと、中学の頃、文化祭でやったくらい……かな……」
 言うまでもなく黒歴史だ。
 きっと生涯ネタにされるに違いないと思っている。
「あら、そう。……まあ、あなたの実力自体はどうでもいいわね。協力してもらうのは、私の夢の一歩のため——私はプロのコピーバンドを目指しているの」
「プロの、コピー……」
 コピーバンド。著名なアーティストをカバーするあれ、だよな。
 ……待てよ、そもそも……、
「コピーバンドにプロとかってあるの? トリビュート的な?」
「定義が難しいところね。メジャーデビューしてからオリジナルを作り出したりする、《《上手いことやっている》》バンドとかもあるみたいだけど。純に言えば亡くなったり、解散したりしたアーティストの再現として受け入れられているものもあるわ」
 そう、再現よ、と友梨は強く言う。
「だからこそ妥協なんてできないし、中途半端なのは私が許さないわ」
 言葉以上に彼女の目はマジだった。
「どうして、そこまでして?」
「決まっているわ。私はこの病院にいる人たちを元気づけるために音楽をやりたいのよ」
「そんな理由が……」
「……まあ、それはちょっと嘘」
「嘘⁉︎」
 一瞬すげえ沁みいってたのに!
「私もただ、彼女の……坂井泉水の詩を再現してみたいだけよ」
「だからって……僕が入っても……。他にメンバーはいるの?」
「いないわ。つい最近決めたことだし、元よりユニットってそういうものでしょう。少なくとも、私にとってあなたは大きな存在よ。ただの興味本位だけで言ってるわけじゃないわ。ちゃんと理由がある」
「その理由を聞いても?」
「構わないけれど……」
 一拍置いて、友梨は言った。
「その前に——あなた、音楽は好き?」
「…………どういう意味?」
「ただ答えてくれればいいだけよ? まあ、好きかどうかわからない人間は、そうそういないと思うけれど」
「いや……好きか嫌いかで言えば……好きだよ。音楽自体は」
「そうね。じゃあ、なぜ好きなのかしら?」
「なぜ、か……。……僕が小さい頃、なんていうかな、両親が仕事で忙しいタイプだったから、寂しさを埋めるために聴いてて、それこそ勇気づけられるっていうか……、だから好きだなって思う、かな」
「そう。じゃあ、もう一度聞くわ。あなたは、音楽は好き?」
「……ああ、好きだよ。間違いなく」
「……そう。よかった。そして奇遇ね」
 友梨は安堵したように微笑んで。
「私も、音楽は大好きよ」
 優しい声で、告げた。
 と、

「——————————— —————————」

 それは、
 突如として紡ぎ出された歌声。
 ずっと、ずっと聴いていたくなるような——これは、

「すごい、似てる。いや声が似てるとかじゃないんだけど、なんていうか雰囲気がめちゃくちゃ似てるっていうか……」
 僕がしどろもどろになりながらも思ったことをそのまま伝えると。
「ありがとう。素直に嬉しいわ」
 小さく微笑んだ気がして、
「————————————私ね、病気のせいで、小さい頃から入退院を繰り返していたの」
 友梨は唐突に語り出した。
 くるりと顔を傾けて、
「小学校も中学校も、まともに通ったことがないわ。学校行事だって、ほとんど参加できなかった。……入院している間に、終わってしまうから。
 ずっと、独りだった。けどね、ある日お父さんがたくさんのCDを持ってきてくれたの。『母さんが好きだったものだ』って。
 それからは暇さえあればずっと音楽を聴いてたわ。そして気づいたら歌ってた。ZARDだけじゃなくて、他にもいっぱい聴いて、歌って。ここでね。
 歌詞も、メロディも、コードも、ぜんぶ覚えて、自分でも曲を作るようになった。時間だけはあったから。
 結局、自分だけの音楽は見つからなかったけど、表現したいものが見つかった。それがZARD」
 どう? 普通の理由でしょう?
 なんて、友梨はつらつらと語った。
 まるで歌うように。
 噛み締めるように。
 どうして彼女は、
「……っ、やっぱり、素直に納得できないよ。会って間もない僕にそこまで語ってくれるの?」
 彼女の情緒は普通ではなかった。
 普通と語る彼女の言い分は、十分普通じゃない。
「どうして、僕なんかに?」
 ただ。そう。
「だから、その理由はね——」
 立って。
 フッと、黒髪と陶磁器のような美顔が息がかかる距離にやってきた。

「———、—————————————————」

 囁き声で伝えられた言葉は衝撃だった。
「なんで、友梨がそれを……っ」
 これだけは言ってない。絶対。村上さんにも、誰にも。
 見られてた?
「本当に、奇遇ね」
「い、いたの?」
「さあどうかしら」
 いたずらに笑って、足を組んで座り直す友梨。
「〜〜〜〜っ」
「意地悪が過ぎた? 正直、そんなに恥ずかしがられるとは思ってなかったのだけど」
「まさか、な」
 実際に大した話でないのは事実だけど、ここはなんかなぁ、男のプライド的な部分。なんかなぁ。
「それで、どうするの? 私は全部話したわ。まっさら。まだあなたの答えを聞いていないわ」
「うぅ……」
 ずるい、と思う。
 謎が謎を呼ぶ発言を聞き返したのは確かに僕だが、こうまで語られていよいよ後戻りできない感がすごくある。もうすでに、彼女の世界に引き込まれている。
「…………目標は?」
「目標?」
「ああいや、長期的な目標はわかったよ。でも、いきなり大きな目標を掲げられても現実感がないだろ? もうちょっと短期的な……小さい目標とかないかな」
「……あるわ。こういう田舎の病院施設って地域との密着を大事にしているのだけど……ちょうど一週間後、小規模なイベント企画が行われるの。主に患者の慰安目的で、落語家や演奏家を呼んだりね。
 そのイベントステージで、少しだけ歌わせてもらうことになったの。記念すべき初ライブというわけよ」
「おじいちゃんおばあちゃん相手に?」
「そう、おじいちゃんおばあちゃん相手に」
 オウム返しをする友梨の顔は自信に満ちている。さらっと聞き流してしまったけど、初ライブって心持ちじゃない。
「あの年齢層がZARDを知ってるかな?」
「なんでもいいのよ別に。十代そこらの若者が歌うってわかれば野暮なことは言わないでしょう。第一、私の歌声で魅了すればいいのだから、どうということはないわ」
 無茶苦茶言うな、この人。
「そこにプラス、僕か……」
「二曲程度の披露だから、そう難しいことはしないわ。最悪、私もサポートするしなんとかなるわよ」
 うーんまぁ、なんとかなるか、な。
「……わかった。じゃ、そのイベントステージに向けて練習するってことだね。……僕は全くもって気にしないけど、看護師さんとかに怒られないかな。安静にしてないと退院できないぞとか脅されてるし……」
「そういうめんどくさいことは村上さんがなんとかしてくれるわよ」
「その村上さんが脅してきた張本人なんですけど」
「大丈夫。彼女はとても融通の効く人よ。北野くんは検査や点滴が終わったらこの場所に来てくれるだけでいいわ。
 …………そもそも、あなたをずっと拘束する気なんてないのだし、元よりそれに向けての『手伝い』のお願いだったから」
「そう、だよな」
 これだけ盛り上がってはみたものの、僕らは今日初めて出会った他人同士。
 ここは学校でもなければ、彼女と同級生でもない。
 両親の経っての願いもあって、多めの経過観察期間を取っているが、何も異常が見当たらなければまさに一週間後には、この植松病院を去ることになるだろう。
 終わりまでは、長くない。
「でも、一夏の思い出としてはいいと思わない?」
「……ああ、悪くないね」
 認めよう。それでも僕は今、この状況が楽しくて仕方なかった。
 なんなら、コピーバンドをやること自体どうでもいいかもしれない。それほどに。
「やってみるよ、友梨」
 ただ、ワクワクする。
「よろしく、北野くん。未来のことは……その後また、考えましょう。——まだ、きっと時間はあるはずだから」
 友梨の言葉に小さく頷きつつ、
 ふと思うことがあった。
 こんなに元気そうに見えるのに、彼女は超がつく長期入院患者なんだよな、と。

第2話「揺れる想い」

 実時間でたった一時間程度だった友梨との邂逅は、とても短く、とても長い時間だった。
 チープな表現だが、あえて言わしてほしい。
 なんて都合のいい現実なんだと。
「なあ、この世界っていま、僕の夢の中のお話なのかな」
「見舞客に対する第二声がそれかよ」すでに懐かしく感じてしまう高校の制服を着た同級生、大場(おおば)は眉を潜めて言う。「お前の脳がやられちまったって噂は本当だったのか」
「だって、さあ。例えばだ。例えばの話だよ? 女に振られた後すぐ、別の女の子と仲良くなることってあると思う?」
 奇遇、ってやつにしてはでき過ぎていやしないだろうか。
「いや……そういうもんじゃねえの。振られたら普通、すぱっと諦めて次に行くもんだろうし。振られたことないから知らねーけどさ」
「そもそも告白すらしたことないだろ、大場は」
「あん? じゃあお前はあるってのかよ」
「は…………ないけど」
 つい出てしまった本音を慌てて取り繕う。そうだよ、あんな冒険物語は墓場まで持ってくお話だ。
「んだよ、それ……。…………あの派手なギター、なんなの。お前の?」呆れた様子でベッド脇の机に頬杖をつく大場が、今気づいたみたいな声を漏らす。「なに、北野ギターとか弾けたのかよ」
「あー、うん、ほんと趣味程度ね。暇つぶしに弾いてるっていうか……」
「ふーん……病室とかで弾いて大丈夫なのか?」
「まさか。屋上が開放されてるから、そこでストレス発散、みたいな感じ」
「え、屋上って解放されてるもんなの?」
「ここはそうらしいよ」
 いろいろと危ない・・・・・・・・などの理由で解放はされていなかった屋上だが、友梨が無理言って練習スペースという体で使わせてもらっているらしい。
 自慢かどうか、新人ナースよりはよっぽど長くこの植松病院で過ごしてきた友梨は、その美貌と言語力を用いて己の生活を満たす術に長けているそうで、大抵のお願いなら通してしまうようだ。
「へー。とにかく意外だなぁ、マジで。吹奏楽部とか入ってないよな? お前今、帰宅部だし」
「だから趣味程度だって。大場が今から練習しても余裕で追いつける程度」
「お、そうなの? じゃ、今弾いてみていいか?」
「いやダメだっての」
 向かいに気性荒そうなおばちゃんorおばあちゃん(推定六二歳)がいるんだから。
「冗談だよ」
 大場は小馬鹿にした顔で笑った。こいつはよくこういう顔をする。
 大場とは中学からの仲だ。もっとも中学時代に大した関わりはなかったが、我らが自称進学校(浜町高校ともいう)は中高一貫でつつがなく進学した中でたまたま同じクラスとなり、唯一の見知った顔ということで一気に距離が近くなった。
 まだ二ヶ月と少しの高校生活だけど、一番仲良くしているのはこいつだろう。
「しっかしまあ、病院へのお見舞いってもんに初めて来たけど、スマホすらろくに使えないとはなぁ」
「ほら、なんか心臓のペースメーカー?みたいなのがバグってしまうとかなんとか?」
「それくらい知ってるっての。でも、なんていうかな。…………大きい声では言えないけど、ロクでもないところだなって」
 後半につれて尻すぼみになっていく大場の言葉に、僕は「うん、まぁね」と返した。
 ロクでもないところ、というのは同意だ。
 僕に徘徊の趣味はないから、村上さんに焚きつけられる前までは病室でぼーっと過ごす日々だった。
 僕の病室は三階。植松病院は四階建てでいくつかの棟に別れているので、屋上までは少し歩く。そのちょっとした道程でわかったことがあるのだが、僕が滞在している場所は比較的症状等が軽度な人が集まる病棟らしい。
 ところどころ空いた扉の隙間の先には、明らかに立ち上がれそうにない人たちが文字通り——転がっていた。
 あれを『寝ている』と表現するのはどうも、違う気がする。
 なんにせよ、屋上が開放されていなかった理由は、危ない・・・以前に病院内で屋上を利用できる人間が少ないというのが大きいのだろうと思う。屋上へと続く階段の踊り場に、エレベーターはない。
 だから屋上を自分のパーソナルスペースにしてしまっているくらいな友梨は、今すぐどうこうなるというレベルでもないのだろう、と思う。
 ただ、あの四階に彼女の部屋があるのかどうかは当分聞けそうにない。

 ギターケースというものは意外と目立つ。
 過去の僕はなにをとち狂ったのか派手な赤のソフトケースを購入していたので、母親が持ってきてくれたその光景を見てさえぞっとした。
「大人しく借りればよかったかな……」
 ギターケースを抱え込むようにして病院内を行軍していた僕は、人気のない階段前までやってきてようやく拘束を解く。
 友梨はギターの貸与を申し出てくれた。メンバーの楽器を揃えるのはリーダーとして当たり前だとのことらしい。日本人気質というべきか、遠慮した僕は自前のブツを持ってきたわけだが愚かにも少し後悔している。
「来たわね」
 軋む扉をくぐると、例の椅子に友梨は鎮座していた。
「暑くないの?」
 まだ午前中とはいえ、今日も日差しはギンギンに照っている。遮るものが何もない屋上は、とても病人がいていい空間ではないような気がする。
「別に。でも……そうね。お互い倒れても困るでしょうし……」ふと、椅子の脇にある平べったい円形の物体に友梨は触れた。「ぼーっと見てないで手伝ってちょうだい」
「あ、うん」
 促されるままに彼女のフォローに回って謎の「平べったいやつ」を組み上げると、南国のビーチに乱立しているようなパラソルが広がった。
「これで大丈夫かしら」
「たぶん」
 熱さは多少マシになるだろう気はするが、どうみても側から見れば異質な空間を形成している。感覚的に気が引けるが恐る恐る影に入る。
「さて」友梨は僕の方に向き直り、おもむろに口を開いた。「早速始めましょうか」
 彼女は至極当然という顔で言う。
「そうだね。アンプとかはあれ?」
 ギター以外の機器は友梨に全てお任せした。そんなにいっぺんに持って来れないわよという母親の意見は非常に正しかった。深く考えなくてもやべえ迷惑かけっぱなしだな……
「ええ。あまり大きな音は出せないけど……そうね、どれくらい弾けるのかを改めて聴かせてほしいわ」
「……わかった」
 おぼつかない手つきで僕はアンプへと線を繋ぐ。これでいいんだっけ? 機器の使い方も朧げな始末だ。
「何を聴かせてくれるのかしら?」
「昨日も言ったけど……本当にちょっとしか弾けないからね……。そうだな、今はサビの部分しかできないけど、『マイ フレンド』とかどうかな?」
「悪くないわ」
 よし。
 一つ息を吐いて、ギターピックを弦へとかける。音こそ出してないものの今朝から記憶を辿って練習していた。なんとか形にはなっているはずだ。
 チャ、チャ、チャ、チャチャチャチャチャ!
 明らかに便りなく見えるだろう手つきも、感覚を取り戻すごとに幾分かマシになっていった(はず)。
 サビを弾き終えると、友梨は小さく、二回拍手した。
「……どうだった?」
「率直に言わせてもらうと、あまり上手くはないわね」
 平坦な口調で彼女は言う。
「ゔっ……まあ、そうだよな……」
「でも、何の曲を奏でているかくらいはわかったわ。既存の音楽を演奏するなら、まずはそれが第一なの。その点では、及第点といって差し支えないわ」
 友梨の見定めるような目が和らぎ、僕は一呼吸つく。
「友梨の……納得するクオリティには届きそう?」
「曲数を絞れば、なんとか、ね。…………心配しないでも、下手だからってクビになんかしないわよ?」
「そんな心配してないよ!」
 本気で声のトーンを変えた彼女を見て、慌てて僕も取り繕う。……誰かに聞かせる音楽は僕にとって、これで二度目だったから。少し、そう、緊張していただけだ。きっと、そうなのだ。
「それじゃあ、次は私の番ね」
「え?」
「こんな雰囲気で弾いてほしいっていうお手本」素っ頓狂な僕の言葉へ、伸びてきた友梨の腕が答えを返してくれた。「借りるわよ」
 友梨は椅子に改めて深く腰掛けると、静かに、ゆっくりと指を走らせた。
 ——彼女が紡ぎ出す旋律は、まるで透明な糸のように僕の耳を通り抜けてゆく。

『いつも輝いていたね——』

 あの、他の誰にも真似できないと思わせる透明な歌声が、たしかに脳裏に焼き付けられてゆく。
 サビ部分。わずか十数秒の「ミニコンサート」を前にして、僕は拍手を送らずにはいられなかった。
「すごいじゃん……僕別にいらないじゃん」
「馬鹿を言わないで、私はボーカル担当よ。音楽の在り方を型にはめるつもりなんてさらさらないけれど、自らの歌声のみを武器として聴衆を魅了することがボーカリストの本文だと思っているわ」
「友梨は強いんだな」
「強くあろうとしているだけよ。あなたと一緒でね」
 僕の小さい虚栄心をあっさり見透かされたような気がして、少し、居た堪れなくなった。
「まあ、聴いての通り、あなたの……言葉を選ぶとすると荒削りな演奏は、私の歌声に釣り合うものじゃないわ」
「ごもっともです」
 ところどころでトゲを刺してくる彼女にしてはえらくオブラートに包んだ表現だ。
 それだけ真剣に望んでいるという証か。
「選曲はまだ確定してはいないけど、先に言った通り曲数は絞って……二曲よ。『負けないで』は確定かしら。あともう一曲は、私が教えてあげるから、じっくりと決めましょう。——時間が許す限り」
 友梨の目が妖しく光った気がした。
 ああ、会って間もないけど既に確信していることがある。彼女は絶対にスパルタ教師だ——。

「あら、おかえりだね」
 午前と午後の練習を終え、くたくたになって病室に戻ると、村上さんが点滴注射の準備をしていた。
「それって……まだやらないとダメなんですか?」
「当然。あのね、君が思っている以上に君の体力は落ちてるんだよ? あんな安っぽい病院食だけじゃなかなか体力は戻らないんだから」
 看護師にしてはだいぶ攻めた発言だが、口調自体は珍しく真面目だった。仕事モードの村上さんには、それこそ一切逆らえる気がしないので、ギターケースを脇に置いてから大人しくベッドに腰をかける。
「それでどうだった? 一日目の練習」
 アルコール消毒液のついた綿布で僕の手首をこすりながら、ふと、彼女は尋ねてきた。
「そこまで友梨から話を聞いてるんですね……づっ」
「あ、ごめん。……へー、そーいう風に呼んでるんだ。へー」
「何がおかしいんですか。仕事に集中してください」
 この人いま、ノールックで注射してミスったぞ!
 村上さんは再び「ごめんごめん」と僕の静脈を探る。プスリ。「うん、入った」今度は上手く行ったようだ。
 点滴スタンドにパックをかけて、村上さんは立ち上がる。「安静にしてなよ」
「わかってますよ……」
「それで君は、友梨ちゃんのことをそう呼んでるんだね。すごく、意外」
「思いっきりぶり返しますか。名前で呼べって……そう言ってきたのは彼女の方ですよ」
「それでも、友梨さんでもなく、友梨ちゃんでもなく——ねえ」
「そこに変な意味なんて……ないですよ」
 本当になんとなく、そう呼ぶのがしっくりときたのだ。理由なんてあるはずもないだろう。
「うん、うん。この夏は二度と来ないんだ。たっぷりと楽しんでね」
 ぽん、と肩を軽く叩いて、点滴が上手く入っているかをもう一度確認したのち、村上さんは病室を後にした。
 ぽたっ、ぽたっ。
 聞こえるはずのない点滴の雫音を空耳しながら、僕は今日、幾度となく繰り返したピックの動きを再現した。

 スマホの目覚ましアラームが鳴らない朝というものに、僕はいい加減に慣れてきた。
 それは現在スマホを使えないという理由だけじゃなくて、ひとえに他人を気遣う必要があるからだ。
 空が薄ぼんやりと明るくなり始めた朝、何気なく目が覚めてお手洗いへ向かおうとベッドを抜け出て仕切りのカーテンを開くと、人影がぴたりと動きを止めた。
「……っ、おはようございます」
 あまりにも気配がなかったので内心ビビりまくりながら声をかけると、
「…………ああ」
 僕の数倍の年輪が刻まれたお婆さんは、小さく会釈を返してくれた。
 彼女は、ほんの昨日に入院してきた。
 僕が教わったことを忘れないようにと復習していた最中、隣のスペースに設置されてあるベッドへ新たに運ばれてきたのだ(言い忘れていたけど、この病室は基本的に四人部屋だ。現在進行形で重篤な患者や金持ちなんかは個室で過ごせるらしいけど、僕の状態ではこんなもんだ)。
 漏れ聞こえてきた話から察するに、熱中症で倒れてしまったらしい。
 一人暮らしで、冷房つけてなくて、みたいなテレビでよく聞くお話だった。
 もっとも入院となった割にはたいそう元気で、「もう大丈夫だから早く家に帰せ」と怒鳴り散らしていたが。おおかた家族の勧めで入院することになったのだろうと少しばかり共感できる部分はあったが、それでも厄介な人がきたものだと思ってしまった。
 お婆さんは僕のことをほんの一瞬だけ見つめた後、自らのスペースへと戻っていった。
 お手洗いを済ませた僕は、どうにも再び眠れる気分ではなくて屋上へ向かうことにした。一応はまだ起床時間まで一時間ほどあるので出歩くことは推奨されないのだが、屋上へはナースステーションを通る必要がないので問題ないだろう。
 そして、僕は朝風に身を当てた。
「意外に涼しいな」
 まだ、日は昇らない。
 普段、日常生活を送るにおいて朝方に出かける習慣などなかったので、夏の朝がこんな世界だと知ることもなかった。
 視線をわずかに傾けると、木製の椅子とパラソル。昨日は気にならなかったが、なぜ寝転がれる長椅子のようなビーチチェアじゃなくて、こんな……安っぽく座り辛く《《懐かしい》》椅子なのだろう。
 やはり、“行きたいから”なのだろうか。
 ……僕はなぜ、彼女のあんな、無茶な誘いに喜んで乗ったのだろうか。
 後悔は微塵もない。それは断言できる。
 なんとなく面白そうだったから。これは間違いなくある。
 僕が彼女に……、なんてことはきっとない。
 いくらなんでも。そんな単純で馬鹿な奴じゃないと自分で信じたいよ。さすがに。
「コンプレックスは乗り越えることでしか消せない、か……。わかってるよ、そんなこと」
 僕の「叫び」は温い風とともに消えていった。

 上手くも不味くもない朝食を済ませ、村上さんとの雑談(という名の尋問)を乗り越えた後、ロビーから持ち出してきた『スラムダンク』を暇つぶしにめくっていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
 すわまた入院患者がやってきたのかと——この部屋にベッドの空きはもう一つある——耳をそば立てていると、
 カシャアッ!
 僕のスペースのカーテンが開いた。
「なっ……友梨?」
「迎えにきたわよ、北野くん」
「きたわよって……。朝練?まであと三〇分くらいあるはずなんだけど」
 炎天下の屋上で病人二人が居続けるのはさすがに病院側からの許可が降りないとのことで、練習時間は午前中二時間と夕暮れ時二時間の計四時間と取り決めた。
 故に練習開始は八時からだったはずだが……、
「そうね。だから迎えにきちゃった?」
「疑問系で言われましても」
「まあ来てしまったのだから仕方ないじゃない。付き合いなさいよ」
「……はあ。暇だったからいいけど」
 これ以上言い合ったところで埒があかないのは目に見えている。……ついでに、相部屋の住人からの視線も気になる。
「それで、なんの用?」
 病室を後にして友梨に連れられるまま、僕は尋ねる。
「私のきつーい特訓が始まる前に、お茶をしようと思って。あなた、コーヒー派? 紅茶派?」
「え、どっち派でもない……強いて言えば麦茶かな」
 何を隠そう、コーヒーも紅茶も苦いから嫌いだ。
「紅茶ね」
「……麦茶は……、もう最悪、水とかでいいんだけど」
「同じ『茶』、よ。ちなみに私も紅茶派で、さらに言えば紅茶しか用意していないわ」
 じゃあなんの意味があったんですか今の質問。
 もう何も言えずに着いて行き、数時間ぶりの屋上へと舞い戻る。しかし彼女の宣言通り、白い丸テーブルとその上にティーポットとカップというティータイム用の備品が追加されていた。屋上に電気が通っているという環境を存分に利用するつもりのようだ。
「えらく本格的だね」
 どっから持ってきてるんだろう。
「父が喫茶店をやっていてね」
「ああ、そういう。…………ところで椅子が一つしか見当たらない……、」
「北野くんは立食パーティーに参加したことはあるかしら? 私は当然ないのだけど」
「立ち食い蕎麦屋なら、一回だけあるよ」
 頑なだよなぁ、この子。

 ちなみに彼女の淹れてくれた紅茶はすごく美味しかった。
 初めて美味しいと思える苦味だった。

「さて、今日はこれくらいにしておきましょうか」
 インターバルを挟んで夕方。おそらく午後六時前。無尽蔵かと思える彼女の歌声に合わせて、僕は弦を弾き続けた。
「二つ目の演奏曲はどうする? そろそろ決めないと練習時間が足りないかも」
「その通りね。一応は昨日、個人的に歌いたい曲の中から難易度が比較的低そうな曲をピックアップしておいたわ。……これよ」
 差し出された紙には一〇曲ほどの曲目がリストアップされていた。
「なるほど……知名度のある曲からマイナーな……なんなら僕が知らない曲まである……。パッと見で難しそうとかはわからないんだけど、この中だとどれが一番難しいかな?」
「正直、それを見つけることが難しいのよ。一般的にはバレーコードが含まれているような曲は初心者に薦められないというのが定説だけれど、私からしてみれば『慣れでしかない』ものだし。
 ここまで言ってなんだけれど、一つは私がどうしても弾きたい曲を選んだのだから、あとの一つはあなたが決めてもらっても一向に構わないわ」
「あ、そう? えー、そうだなぁ……えーと…………」
 てっきり彼女の言うままに事をこなすものだと思っていたので、僕の思考はほぐされていない。
「もちろん、ここに載ってない曲でもいいのだけど……その様子ではすぐに決まりそうにないわね。今夜、じっくり考えてみて、明日に聞かせてちょうだい」
「そうさせてもらうよ」
 ふぅむ。やっぱりコレクションCDの中から選ぶべきかなぁ。
「…………時に北野くん。ずっと気になっていたことを一つだけ。————あなたから女の匂いがするわ」
 僕は吹き出した。
「っ……急にどうしたの。臭い? 僕そんな臭う……ってそう言う意味じゃないよね?」
「影、かしら。さっきから汗を拭く時に使っていたハンカチ……、あれ、明らかに女性用でしょう」それに、と友梨は指先を下に指し示す。「そのギターケースについてある、かわいらしーいストラップ。なんのキャラクター?」
「へ。この犬みたいなやつ? あー、聞いたような気がするけどなんだったかな」
「やっぱり。女の臭いがするわ」
 …………なんとなく合点がいった気がする。
「あの、勘違いしてるかもしれないけど、これ彼女からの贈り物とかじゃないからね?」
 そんなものを僕が得ようとしたからこんな目に遭っている。
「……そんなこと知ってるわよ。母親からもらったものでしょう」
「違うよ! 流石に高校生でそれはないよ!」
 高校生って母親からのプレゼントを喜んで日用品として使える時期じゃない。一五年早い。
「あら、酷いことを言うわね。親孝行したい時に親はいないなんて言うわよ? 私はよく知ってるんだから」
「うぐ、その煽り反則だろ……」
 ちくしょう。とんだトラップだった。
「……これとかは……その、妹からもらったやつだよ」
「なによ、よりひどいじゃない」
「そ、そうかなぁ。あんまり意識したことなかったけど、やっぱり変かな」
「変、というよりわからないわね。実は私にも弟がいるのだけど、異性の兄弟、ましてや中学生なんてどう接すればいいかさっぱりわからないわ。未知の生物ね」
「そんなに? そりゃあ、話が合うことは少ないかもだけど日常会話ならそれなりにするものだと思ってたんだけどなあ」
 正月やクリスマスにもきちんと家にいるタイプの妹だ。大人しいって感じでもないんだけど、よく夜中に大きな声で喋ってるし、「今時」ってやつなのかな。
「仲がいいのね」ふっと、友梨は小さく息をついて、ほんのりと影がかかる空を見上げる。「弟が最後にお見舞いに来てくれたのはいつだったかしら。そんな感じよ」
「……いろいろ、あるんだなぁ」
 僕の周りには不思議と兄弟姉妹がいる友人がいないので、何気に他所様の話を聞いたのは初めてかもしれない。
「お父さんは毎日来てくれるのだけど」
「毎日⁉︎ いつ⁉︎」
「昼よ。ほら、私のお父さん自営業だから」
「いや知らないけども。……てことは、その、お父さんはバンドのこと知ってるの?」
 病弱な娘の父親に会ったことはないけれど、溺愛して《《視野が狭くなってる》》だろうことは容易にわかる。
「知ってるいるし、なんなら当日観にくるわよ」
「マジですか」
「頑張りましょうね————優子ちゃん?」
「——! 友梨、まさか……」
「私、正直メイクとかに疎いのよね。村上さんに頼めば見れるようにはしてくれるかしら」
「一応伝えておくけど、僕が妥協できるのはウイッグが限界だから」
 あとはマスクとサングラスをすれば、どうにか、いや無理だな。
 何より僕が「優子」と名乗るのは《《複雑すぎて》》絶対にお断りだ。
「ウイッグ……そうね。小さいから、なんとかいけそう」
「一六七センチは小さくない! はず……。平均……ほんのちょい下くらいだし」
 もちろん。これも自信はなかった。
「あら、もうこんな時間」あまり申し訳なさそうに聞こえない声で僕の抗議を無視して、「余計なことを話しちゃったわ。看護師さんからの印象を悪くするのは望むところではないし……とにかく、明日の練習までに決めておいて頂戴ね。朝一番から練習開始よ」
「……うん。了解」
「それじゃあまた」と、機材を丁寧に片付けて——元は何を入れていたものだったのだか、屋上にはおあつらえ向きの倉庫がある——彼女は病室へと戻っていく。
 音楽に関わることに、偽りも適当さもない。
 …………なんでこう、もうちょっとバランスよく話せないんだろうか。

 友梨はさっき、腕時計を見て時間を確認していた。
 電子機器を使いにくい環境に長く身を置く彼女だからこそ、そのようなものを持っているのだろうが、液晶ディスプレイに表示される四桁の数字で時間を把握するのに慣れきった僕には、その場で時間を確認する術はない。
 が、ちょっとくらいいいかと僕は再びギターケースのジップを開けた。
 音楽に関してだけはどこまでも誠実な友梨が言うに、やはり僕の腕は「聴けるレベル」でしかないようだ。
 もちろん即席で、しかも一年近くは触っていなかったものを、よくぞ弾けていると我ながら思う。意外と忘れないものなんだなと。
 そしてきっと、絶対に。彼女は僕に多くを求めない。それだけはわかる。
 なぜなら、僕の青臭いコードに合わせて歌う彼女の瞳は、今まで見たどんな人よりも輝いていたから。
 だから、僕も頑張ってみたいんだろう。
 だってこんな機会、もう二度とない。

 一五分。
 たぶん、その程度なはずである。
 夕食前、体内時計なんて贅沢な装備を標準していないので、感覚的に大丈夫であろう時間に僕は病室に戻ってきた。
 村上さんが仁王立ちしていた。
 それはもう完璧な仁王立ちだった。
「遅いよ」
 一言言って、彼女はずんと丸い物体を僕の前に突き出した。
 …………病室にかかっている丸時計だった。
「夕食の時間は何時からか覚えてる?」
「午後六時、ですね」
「そうだね。今は何時だろう」
「六時半ですね」
「とりあえず入ろうか」
「はい……」
「蛇に睨まれた蛙」ということわざを、僕は完璧に理解する。
 ヒールを叩きつける音の後をすごすごとついていき、促されるままにベッドに潜り込む。このまま頭までシーツを被ってしまいたかった。
 正面に回されたサイドテーブルの上にはさすがに見慣れたまずそうな——栄養バランスが整ったものだということはわかってる。それでも言わせてほしい——病院食が並んでいる。汁物から湯気は出ていない。
「私、何度も言っているよね」
 こういう時、村上さんは怒鳴らない。淡々と正論だけをぶつけてくる。
「食事だけはしっかり取らなきゃダメだって。体力が戻らないって」
 まぁ、きつい。
「それに門限も守らないのも絶対ダメ。夏でも夕方は冷え込んでくるんだから。自分で身をもって体験したんでしょ?」
 コクコクと頷く僕。
「なら気をつける! 君に何かあったら、管理責任がある私もえらいことになるけど、それ以上に君の『周り』も悲しむことになる。・その『周り』がどれだけいるのか・。よーく考えることだね」
「……はい」
 ひとしきり身に染みるお説教をした後、村上さんはことんと軽く手刀を下ろした。
「じゃあ、さっさと食べる。本当はそろそろ下げなきゃいけない時間だけど、君は食べなきゃ。明日も練習、でしょ」
「……いただきます」
 言われるままに箸を手に取る。
 薄い味付けの魚料理。これは……鯖かな。当然のように冷めてる。おじやの方は冷めててもまぁ、変わらないかな、個人的に。
 無言で食べ進める僕に、それでいいとばかりに頷いていた村上さんは、
 君を担当してから上司に嘘をつくのが少し上手くなった気がするよ、と可笑しそうに小さく笑った。

『よしよし。よく食べたね』締めとばかりにカロリーインゼリーを飲み干した僕を労ってから、『今日は早めに寝ること!』
 そう言い残して、村上さんはトレイとともに足早に去っていった。
「寝る前に、やらなきゃなんだよな」
 ベッド脇に置いてあるCDディスクを漁る。シングルからアルバムまで、曲目を目で追うとともにメロディーを脳内で流す。
 どれもいい曲だ。
 言ってしまえば、どれでもいいのかもしれない。
 どれくらい頭を悩ました後だったか……。ひときわ目に留まったアルバムがあった。
「……これって確か……」
 僕の覚えが正しければ……、
 ディスクケースを開いて歌詞カードを見てみる。やっぱり。思った通りの曲だった。
 ちょっとだけ臭いかなぁ。
 どうにも今の僕たちが歌うには小っ恥ずかしい曲のような気がするけれど。
「やってみるか」
 今の気持ちを大事にしたい。そんな気分なのだ。
 あと……そうだよ。
 その歌詞を紡ぐのは友梨なんだから、僕が恥ずかしがる必要なんてないかな。

「ん……」
 頭がぼーっとする。
 明滅する視界には薄闇が広がっている。
 ベッドの上で例の曲を演奏する姿を思い浮かべているうちに寝落ちしてしまったようだ。
 …………どうにも体が重い。風邪をひいたとかじゃなくて、物理的な。
 ……ここは病院だ。病院といえばまぁ、そういう話の一つや二つ、むしろあって然るべきだ。これはひょっとして、金縛り的な恐怖体験が進行中なのか⁉︎
 まずい。本当に下半身が動かない。
 意識したからなのか、というか、《《何かがいる》》。布団の中に。
 え、怖い怖い怖い怖い。もぞもぞ、もぞもぞ。
 ……夢であってほしい。たぶん、半泣きだった。叫ぼうにも不思議と声が出ない。やっぱり本物——⁉︎
 おそらく十数秒にも満たない時間。
 ほんの少しだけ僕は覚悟を決める。首だけは動くことに気づいた。固くつぶっていた瞳を極限まで薄く開いて、盛り上がったシーツの中を覗き込む。
 暗くてよく見えない。
 じーっと、じーっと睨み合いしていると。
 ガバッと! 白い手が伸びてくる!
「ひっ——」
 今度こそ絶叫しようとした僕の口を、ひやりとした手がきつく塞ぐ。
「——静かにして。バレるわ」
 …………それは、かなり聞き覚えのある声だった。
 もがもがと足掻く僕の顔を抑えたまま、その人はゆらりと起き上がる。背景に溶けた髪が空を凪ぐ音だけが微かに響く。
 紛れもない、友梨だった。

第3話「明日を夢見て」

 人の温もりというものは成長するにつれて感じる機会が少なくなる。
 正確には僕みたいな箸にも棒にもかからない人生を送っている非モテには、という注釈がつくが。
 それにしても気づかなかった。
 女の子の体は柔らかい、って。
「———て、」
「だから、静かに。周りの人に迷惑よ」友梨はいっそうフラットな声で、「それで、決めたかしら」
 抑えられていた口元が、わずかに緩む。
「なに、を……それよりちょっと」
「まさか! 朝起きてから考えようなんて愚かしい決断をしてはいないわよね」
 まだまだ寝ぼけつつあった頭だが、ようやく合点がいった。
「あー、決めたよ、決めた」
「あらそう。どの曲?」
「その前に……なんで僕の布団に潜り込んでいるわけ?」
 病衣の内に押し込んだ長い手足を器用に折りたたみ、すっぽりとシーツで体を覆っている友梨。
「不本意よ。早朝とはいえそこかしこに看護師さんがいるもの。危うく見つかるところだったわ」言うがいなや起き上がった友梨は、思いの外大きく上がっている息を整えて、「おはよう、北野くん」
 素直におはようと返せなかった僕は、特に悪くないはずだ。
「本当の本当に、なんの曲に決めたか聞きに来ただけってこと?」
「そうよ。他に理由などあるはずもないわ。来る日曜日まであと四日、一分一秒たりとも無駄にはできないのもの。——あなたが一瞬で楽譜を用意できるというのなら話は変わってくるけれど」
「あ——」
 なるほどそういうことか。
『負けないで』の楽譜はかねてより友梨が用意していたのか、練習開始当初から何気に使っていたが、その他の楽曲のものが全て揃っているわけもなし。
 ましてや《《今から》》なんて、冷静に考えて間に合うのだろうか。
「楽譜、なんとかなるの?」
「するわ。今はパソコンに、便利なアプリがたくさんあるから。数時間あればね」
 こともなげに彼女は言う。
「へー、そんな感じでできるのか……、って、友梨の部屋で、パソコン使えるんだ?」
「使えるわよ。個室だもの」
「ほら、でも、友梨自身に関係なくても電子機器が悪影響を与える機械がなんとか——」
 ぷふっ、と友梨は吹き出した。
「いつの話をしてるのかしら、このお馬鹿さんは。個室にICUみたいな精密機械があると思っているの?」いたずらな、瞳で、「なんなら今ここ、多人数病室でも通話以外は禁止されていないはずだけれど」
「そ、そーなの?」
 あれー、おかしいな……。本気でおかしいな。
 たしかに村上さんはスマホ使用の一〇〇パーセントNGを叩きつけてきたんだけど……。ひょっとするまでもなく騙くらかされたか。
「第一、電子機器が禁止なのだとしたら……その安っぽいCDプレイヤーも厳しいのではないかしら」
 …………
 もっともな話だった。
「それはいいとして、いい加減に教えなさいよ。もったいぶられるのは、嫌いだわ」
 三度の催促に、僕は数度、首肯する。
 枕元の電灯を一段階薄く点けて、傍らに置いてあったアルバムの裏側を見せた。
「それの、一番上」
「ふぅん、ベストアルバムねえ。……北野くんは、これが良いと思ったのね」
「やっぱり、ちょっとあれかな」
「文句はないわ。私が委ねたのだし」
 当日は少し寂しくなるかもしれないけど、という彼女の言葉に、僕は若干だけ後悔したのだった。

 友梨は、宣言通り二曲目を聞いただけで帰っていた。
 いや何を期待していたわけではないけども、ダイナミックな登場をした割にえらくあっさりと退散したので、拍子抜けしているのだ。
 時刻は四時半過ぎ——おかげですっかり目は覚めてしまったが、起床にはまだまだ早い時間だ。
 ……とりあえず、トイレ。
 朝方特有の尿意を催してしまったので、僕もゆっくりとベッドから降りて仕切りのカーテンを抜ける。
 友梨との会話で夜目はできていたので、すいっと病室を出て行こうとすると、
「うるさいよ」
 心臓がキュッとなった。
 声の方へと恐る恐る首を傾けると、薄緑のカーテンの折り目の奥、ぎろりとした目玉があった。
「っ……」
 一歩引いて改めて見ると、しわが刻まれた輪郭が闇に浮かび上がってくる。
「いま、何時だと思ってるんだい」
「……ごめんなさい」
 隣に運ばれてきたお婆さんだった。
 お婆さんは僕が謝った後もじーっと見つめ続けてくる。え、これ、もう行っていいやつ? それともめちゃくちゃ怒ってる?
 なんで友梨には声をかけなかったんだろうという責任転嫁(いやそうでもないか?)をしつつ、状況を打破すべくこちらから話しかける。
「お、起こしちゃいましたか?」
「…………もう起きてたよ。やりかけの縫い物をしてたんだけどね、ごそごそと朝から若いのがうるさいよ」
「そう、ですか。朝早いんですね」
「老体はね、長く寝れないんだよ。体力がないからね。——体力がないと、眠れない夜が多いんだよ」
 ピシャッ。
 言うだけ言って、カーテンが勢いよく閉まった。
 ……なんだったんだ……?
 もちろん早朝から騒いだ僕たちが一番悪いというのは間違いないが。カーテンの向こうになんとなく会釈をしてから、お手洗いへと向かった。

 日が昇り、約束の時間。
 昨日と同じ時間きっかりに屋上へとたどり着く。今日は昨日よりも気温が低いらしく、妙に肌寒く感じた。
 屋上の扉を開くと、何やら香ばしい香りが漂ってきた。いつもの場所、今日はティーセットに加えて焼き菓子のようなものがテーブルの上に広げられている。
 僕が来る前に用意してたんだろうか……。
 なんだか、餌付けされている気分になる。
「改めておはよう。今日も優雅に始めましょうか」
「そんなキャラだったっけ、友梨」
「あなたも日によって服装を変えるでしょう、それと同じことよ」
 大概に無茶なことを言っているのに、不思議と友梨に言われるとそうであったような気がしてくる。
「じゃあ遠慮なく頂こうかな」「ダメよ」
 スッと、テーブルへと伸びた手は差し止められる。
「ティータイムは午後からだと決まっているの。何より、休憩がてらに嗜むのが良いのよ」
「そんな……」
 かなりの生殺しだった。
「それよりも、はいこれ」
 見覚えのある動作とともに差し出されたのは、タブ譜とダイヤグラムが連なった例の楽譜。
「もう作ったの⁉︎ あれから?」
「当然でしょう。これで効率よく練習を始められるというものよ」
 頭が上がらない話だった。
「こんなの一からよく作れるね……」
「今すぐに音楽教師になれる自信があるわ。……どう? 弾けそう?」
「練習するしかないって感じかな」
 まぁ、見る前からわかっていた。僕が選んだのは明らかに一癖も二癖もある楽曲だったから。
 ほんの、少しだけ頭が痛くなったけれど後悔はない。
「友梨こそ、バッチリ歌えそう?」
「深層の歌姫も舐められたものね。私はどうにでもなるわよ。いいからあなたの練習を始めましょう」
「オッケー、頑張る」
 ——今日も屋上に、拙いエレキコードが響き渡ることになる。

 あっという間に一日が終わろうとしていた。
 二曲目の練習はかなり苦戦気味だった。コードの難易度はさておき、聞き慣れているとは言い難い曲でもある。まず正確なメロディーを覚えることから苦労した。
「あと三日……当日は実質ないものとして、あと二日の練習ね」
「改めて聞くと、異様だね。我ながら弾丸トレーニングだと思うよ。……まだ少し時間があるけど、合わせてみる?」
「言うようになったじゃない。喜んで……と行きたいところだけれど、少し疲れたわ」
 汗の滲む額を拭いつつ、彼女は椅子に深くもたれる。
「そっか。そうだよな。休憩挟んだとはいえ、友梨は朝から歌いっぱなしだもんな」
 友梨は一曲一曲に、文字通り魂を込めて歌ってくれる。カラオケでの熱唱なんてそんなレベルじゃなく、今まさにステージに立っているみたいに。
 そりゃあ自然と高揚して、気合も入るというものだろう。
「休憩も練習の内だと思って、ね。北野くんこそ、明日も頼むわよ」
「もちろん」
「あ、そうそう。余ったお茶菓子は持って帰っていいわよ」
「ほんとに? これすごく美味しかったんだよな。友梨はほとんど口つけてなかったけど、いいの?」
「ええ。私、甘いもの嫌いだし」
 最後の最後に、身も蓋もない発言だった。
 機材を片付けてさあ屋上を去ろうかという時……友梨がぴたりと足を止めた。
「友梨……?」
「なんでもないわ。先に帰って、いいわよ」
 突き放すように言う彼女だが、どこか余裕のなさを感じる。脂汗が滲んだ顔というのは、総じてわかりやすい。
「……ひょっとして、体調が悪いのか? やばいなら人呼ぶけど」
「大丈夫。大丈夫よ。自分の体のことは一番わかってるから」
「その言葉はあんまり——」
「——大丈夫だから」
 …………僕のおじいちゃんは、とてつもなく頑固な人だった。
 初孫だったこともあり僕のことは大層可愛がってくれてはいたが、その育て方だったり、生活に対して、よく両親と衝突していたのは幼いながらに覚えている。
 口癖は「問題ない」。
 自分の意見を曲げないということは、他人の意見を聞かないということでもある。
 幾度も病院に行くことを拒んでいたおじいちゃんが、ぽっくりと逝ってしまったことに疑問を抱いた家族はいなかった。
 けれど、それを責める人もいなかった。
 ああいう人だったから。みんな、笑っておじいちゃんのことをそう語る。
 僕は納得がいかなかった。もっと、生きていてほしかった。

 ——いま僕は、友梨に、その影を見てしまっていた。

 ここに来て大人たちの気持ちが、ほんの少しだけわかった気がする。
 何も、言えないのだ。

「ネズミが逃げた」
「……はあ」
「ネズミが逃げちゃったんだよ、昨夜」
 夕食を経て。胃が軽くなってきた頃合い。
 もやもやを胸にしまうのに四苦八苦している最中、繰り返しわけのわからないことを言うのは、夜の点滴注射と観察に訪れた村上さんだ。
「話を逸らさないくださいよ。初めに村上さん、病室でスマホは使えないって言ってましたよね? 嘘だったんですか?」
「私は使っちゃダメとは言ってないよ。使うのは良くないからやめてねって忠告しただけ」
「そうでしたっけ……?」
 どっちとも取れる……。日本語は難しい。
「それよりも。昨日ネズミがいなくなっちゃったんだよ」
「だからなんなんですか、ネズミネズミって。村上さんのペットか何かですか」
 病院でネズミといえば、モルモットじゃないのだろうか。まさか実験中の未知のウイルスを持ったやつとかが逃げ出したんじゃあるまいな。
「違うよ。人様の子だし、もう帰ってきたけど。どこに行ってたか君なら知ってるかと思って」
 ん……?
 ここでようやく。彼女の言葉の節々に見え隠れしていた意図が解けていく。
「……村上さん、友梨のことを言ってるんですか?」
「そうだよ。だって、あの子、昨日の夜に脱走したから」
 村上さんは、なんでもないことのようにさらりと答える。
「知ってたんですか……?」
「そりゃあ今朝方にはすまし顔でベッドで寝てたけどさ、ナースステーション前のカメラにばっちりと。ウケるよね」
 たはは、と彼女は笑って。
「いやー、しかしびっくりだよねぇ。点滴の針を自分で引っこ抜いて出ていくなんて。点滴を打たれ慣れてるとはいえなかなかできることじゃないよ」
 能天気に喋る彼女に僕は、「いや、笑ってる場合ですか」
 さすがにやばいんじゃないだろうか、それは。
「そうだよ。笑い事じゃないよ、まったく。こうなったのも君のせいなんだよ?」細く色白い指先をぴたりと僕の鼻へと突き刺した村上さん。「友梨ちゃんは最近頑張りすぎだ」
 心配だよ、と。
 笑ったような、怒ったような、そして嬉しそうな表情で、彼女は小さくそう口にする。
「私も友梨ちゃんの『今』に水を差したいわけじゃない。せいいっぱい、楽しんでほしいと思ってる。けれど、加減が必要なのもわかるだろう? でも、そーいうのは大人が言ったところで難しいんだ」
 村上さんにしてみれば、随分と言葉を選んでいる感じだった。
 一言一言、絞り出すみたいに。
「四二七号室。友梨ちゃんの病室だ。この意味はわかる? ……ごめんね。私は今、君にすごく残酷なことを言ってる。だけどちゃんと受け止めてほしい。ちょっとずつでもいいから」
 正直、聞きたくはなかった。
 又聞きの情報だけでも判断には十分だったし、覚悟していなかったわけじゃなかった。
 だけれども、
 けれど、
 向き合いたくなかった。
「……どこが悪いんですか、友梨は」
「ごめんね、形だけでも言えない。これ以上は患者さんのプライバシーだから。もちろん、本人に聞けとも言わない。ただ、《《わかっていてほしい》》」
「ずるいですよ、村上さん……」
「覚えておいて。忘れないで。——大人はずるくて、ひどいんだ」
 君はそんなふうになっちゃダメだよ。
 僕の静脈から注射針を引き抜き、いつも以上にテキパキと片す村上さん。その間、何か話そうと何度も口を開いたけど、思うように音が出なかった。

 迷いに迷って、きっかり一時間。
「よし」
 僕は小さく一人頷いて、病室を後にする。消灯までそう余裕があるわけじゃない。今日、踏み出さなかったら次の機会はやってこない。
 その一歩一歩に覚悟を乗せて。僕はひた歩く。
 僕の病室は北棟にある三〇六号室。友梨の四二七号室は南棟であるため正反対の位置である。練習後に階段を一緒に降りる時、彼女は当たり前のように二階へと降っていたがまったくのカモフラージュだったというわけだ。
 そうまでして誤魔化す——あるいは気を遣ってくれているのだから、暴くのも気が引けるが……ここから先、僕たちが前に進むのに必要だとも思うのだ。
 南棟四階。
 取り立ててその他フロアと変わり映えしない景色だが、相変わらずどこか空気が重い。
 三、五、六。
 四二七号室。『三里友梨』というネームプレートが貼られている扉……その下のドアノブに、
『面会謝絶』と書かれたプレートがかけられていた。
「……えぇ」
 どういうことだ。これは。
 拍子抜けというより、ただただ困惑である。
 ノックをしてみる。返事はない。
「友梨?」もう一度だけ、今度は強めに叩いてみた。やはり反応はない。……これは、あれだろうか。開けてはいけないやつでは? いや、普通に考えてまずいな。うん。
 猛烈に引き返したくなったが、村上さんの念押しの言葉が頭にちらつき、僕の足を踏み留まらせる。
「痛っ」何気なく突っ込んだズボンのポケットの中、指先にちくりと刺激がやってくる。「鍵、だったらよかったんだけどなぁ」
 取り出したるは、目にするだけで痛々しい注射針だ。村上さん曰く友梨がぶっちぎった点滴の針らしい。
 重い。重すぎる、いろいろと。
 冗談のつもりでその針を扉の鍵穴に差し込んでみる。その気になったつもりでガチャガチャと回してから、期待もなしに引き戸をスライドさせると、
「うわっ」
 あまりにもあっさりと開いたので思わず声が出た。
 初めから開いていたとは……、
「…………うわ」
 広がる景色に、どうしようもない声が出た。
 なんというか、部屋中に様々なものが散乱していた。個室なのをいいことに衣類や雑誌や、とにかく床一面に散らばっている。足の踏み場もないとはまさにこのことだろう。
 そして、 その中央のベッドで天を仰いでいるのは友梨だ。
「ゆ、友梨?」
「んんぅ」むくりと上半身を起こす友梨。「おはよう、北野くん」
「おはよう……。っていやいや、もう夜じゃないか……って話でもないよね、これ」
「……そうね」
 目を擦りながら大きな欠伸をする彼女。よく見ると顔色もあまり良くないし、目の下にも隈ができていて疲れ切った様子だ。不安だけが募る。
「えぇと…………面会謝絶って書かれてあったけど、入って大丈夫だった?」
 何よりも聞きたいのはそこではないが、どこから突っ込めばいいのかわからない。
「ええ。だって、あれを用意したのは私だもの」
「え、そうなの」
 えらく達筆だったから疑いもしなかったが、そう言われてみればフォントが違った気がする。視界の端に映るのはプリンター。
 って、そうじゃなくて。
「この部屋で、何があったか聞いてもいい?」
 今の友梨の部屋を、散らかっている部屋という表現するのは正確ではない。散らかした部屋と言う方が正しい。
 まるで癇癪を起こした子供が暴れたような。
「なにかしらね、これ」
「なにかしらね、じゃないよ。……勝手に部屋に上がり込んだことは、ごめん。申し訳ないと思ってる。けど、」
「村上さんに、何を言われたの?」
 何か、ではなく、何を。
 もう彼女は、僕が何を聞きにやってきたのかを悟っている。
 否、聞きにくるからこそチャチな妨害でさえ置いておいたのだろう。
 だから僕も、形だけではなく誠意を。
「たぶん、友梨が考えていることであっているし、僕が聞きたいのは君の体のことだよ」
 どくん、どくん。
 流れるままに伝えた台詞が彼女に届くまでの間、心臓の鼓動を大きく感じた。
「そう」
 友梨は小さく息を吐いた。
「別に、たいしたことじゃないの。体のバグ……故障。私は少し壊れやすいだけ——。北野くん、大動脈って知ってる?」
「なんとなくは……」
「私の大動脈の壁は、『柔い』んですって。今はなんとかなっているけれど、いつか、いずれ。
 ギターのボルトが緩んで、弾けて、音が出なくなるのと同じ……いつか動かなくなる」
 友梨は、己の身に起きていることを至極簡単に、わかりやすく伝えてくれた。
 聞く覚悟はあった。でも、かける言葉を用意してはいなかった。なんと浅はかなことか。
 僕の口から出てきた言葉は、「治せないの?」というこの部屋にお似合いな、子供みたいな声だった。
 だってボルトは締めれば直るだろう。修理すれば何度だって、元気になる。だって、そのための病院じゃないか。
「例えが悪かったかしら。痛い質問ね」
 彼女は可笑しそうに、くくっと笑う。
「……私、背が高いでしょ?」
 突如として、そう問いかけてくる。僕が頷くと、「そしてスタイルもいいわ」自虐的に自らの体を艶やかに撫でる。「でも、胸はない」
 言われてみればお世辞にも、友梨の胸元が女性らしいとは言えない。そもそもの唯我独尊的な立ち振る舞いのおかげか「頼りなさ」というものを一切感じなかったが。
 一歩引いて見る人間としての彼女の体はあまりにも——————
「——細すぎるの。どちらかといえば大動脈の不備は『おまけ』で、この脆さが私の『造り』の本質。ちゃんと、治せるのかしらね」
 友梨は細く美しく——頼りない腕で己の体を抱いた。
「こんな勝手な体と心。いつ諦められてもおかしくないから」
「そんなに、悪いの?」
 彼女が言っているのは医者が匙を投げた、ということか。
 そう、冷静に考えてみればわかることだった。病院とは治療を施す場所である。病気になったら駆け込んで、悪いところを治してもらう。大抵は、薬を出しておきますね、注釈打っておきましょうか、これくらいで済む。ちょっとひどいことになっていたら、入院することにもなるだろう。一週間か、一ヶ月か、それとも一年? そして治ったら、退院する。
 じゃあ、治らなかった人は?
 一年。重い時間だ。
 白いベッドの上。《《たった一日でさえ途方もなく感じる空間の中で》》、
 何年も、何年経っても治らなかった人は————
「私も、もう諦めてる」
 ひどく、壊れていた。
 目がチカチカと点滅する。未だに慣れない病室の電灯のせいではないだろう。僕はまともに友梨を見ることができなくなっていた。
 目を逸らし続けていたものを直視しなくてはいけなくなったから。
 歳の頃は一六。年頃だ。
 妹がいる僕にはわかる。中学生……もっと前か。小学五年生くらいにもなれば、女の子は色気づく。男の子が何も考えずに馬鹿をやってる中で、他人に見られることを意識する。良い悪いの話じゃなくて、そういうふうになっている。
 でも、友梨は違う。
 目も、耳も、口も、爪も、衣服でさえも。
 彼女は着飾ることができない。……違う、その表現は正確ではなかった。
 必要がないのだ。
 誰にも、見られることがないから。
 彼女の長い髪。初めて見た時、夜にどこまでも似合うその髪を、僕は「美しい」と感じた。
 彼女にはそれしかないから。

 ——残酷なものほど時に、綺麗に映る。

「今やっていることも、夢も、全部、茶番なのかもね」
 そうよ。私に明日は来ないかもしれないの。
 そんな日々を生きているの、わがままになるのも仕方がないわよね?
 と、
 一段と声のトーンを上げた友梨の表情は髪に閉ざされて見えなかった。
 ただ、廊下から漏れてくるかすかな光が映し出した滴は、彼女の病衣へと溶けていった。
「別に友梨は、わがままなんかじゃないと思う」
「違わないわ」
「だとしたら僕もわがままだ。ここ最近で、いろんな人にいっぱい迷惑をかけた」
 そう。ギター一本、服一着の用意すら自分でできない分際で。好き勝手やらせてもらってる。なんて、勝手な。贅沢なことだろう。
「何が言いたいのかしら」
「つまり……だな。多少のわがままくらい言っても気にしないでいいんじゃないってこと。だって散々、我慢してきたんじゃないか」
「父には、もう考えうる限りの負担を全てかけているわね——」
「少なくとも! 今は、僕も負担できるよ。叶えられるよ、友梨のわがまま。僕のできる範囲で、全力で」
 彼女に残された時間以上に、「僕たち」に残された時間は少ない。
 後悔は、したくない。
「………………まぁ、北野くんなら、そう言ってくれると思って」僕の言葉を数秒、無言で受け止めていた友梨はゆっくりと足を床に下ろして、「まずはこの惨憺たる部屋を片付けるのを手伝ってほしいのだけど」
「ああ、うん」
 陰鬱な雰囲気を一瞬で取っ払った友梨に少し戸惑う。
 彼女は買い物リストの項目を一つ付け足すみたいな口調で言葉を付け足した。
「それとね、私、学園祭で歌うことも夢だったの」
「……え?」
 友梨は、もう一つの願望を語ってくれた。

第4話「ハートに火をつけて」

 長い長い夜が明けて。
 当然のごとく、村上さんをはじめとして看護師、医者、諸兄にものすごく怒られた。
 ぶっちゃけた話、日曜日のステージ出演も危うかった。
 病院サイドは体力的な問題以上に、緊張感等により起こりうる「爆発」を危惧してノーを突きつけてきたわけだが、家族サイド——要するに友梨のお父さんが頼み込んだのだ。
 やらせてやってほしい、と。
 “唯一の”肉親からの強い願いに、病院側が折れた。
 延命治療の是非と近しい話、複雑な感情を抱くことは必至だったが、友梨のあまりにもほっとした表情を見ればどうでもよくなってしまった。
 まぁつまり、僕たちの子供の想いなんてどこ吹く風で事は進んでいたわけだが、なんにせよ結果オーライである。
 そして昨夜の続き。
 友梨からの『お願い』として伝えられたのが、ステージ衣装のことである。
 友梨は、制服を着てステージに立ちたい、と言い出したのだ。
 彼女の今までの境遇を考えれば納得のいく願望だったので二つ返事で賛成したが、どうやって用意するかという問題が大きくのしかかった。
 今時、用意するだけであればいくらでも手段はあるが、問題なのは時間だ。いくらボタン一つで買い物できる時代だからといって、一日二日での取り寄せには確実性に不安が残る。
 そこで白羽の矢が立ったのが、僕の妹であった。
 一個下とそう歳は離れておらず、偶然にも友梨と同じく体格に恵まれているのでサイズも問題ない。
 むしろ問題はその説得だった。
『実の兄に理由なく制服を貸し出す妹がいると思う?』
 初めて使う「緑色の電話」で要件を伝えると——もちろん隠し事なしにそのままを伝えた。僕が妹の制服を欲しがる異常者を演じられない以上、そうするしかない——予想通り呆れた声が帰ってきた。
 いやそこはもっと……妹の電話番号をきちんと覚えていた兄に驚いてほしい。少なくとも僕は驚いた。
『そもそも遭難だの入院だの散々迷惑かけたと思ったら女とイチャコラしてるとか、一回死ね!』
 耳が痛くて本当に死にそうだった。
 まさに散々な言われようであるが全て事実。じっと堪えてどうかお願いしますと深々と頼み込むと、「あー、はいはい。わかった、わかったから!」と渋々と承諾?してくれた。
 時間ないんだよね? 今日の学校終わりに持ってくから、その傲慢な女と話させなよ。
 我が妹はそんな物騒な台詞を吐き出したかと思うと、挨拶もなく電話を切った……
「今日、持ってきてくれるってさ」
 友梨には……都合の良い部分だけをとりあえず伝えておくことにした。
 ステージ出演の譲れない条件として提示されたのが、「今日一日は部屋で安静にしている」こと。逆らえるはずもなく、友梨の部屋で《《ごゆっくり》》という状況だ。
「本当に? 兄弟揃ってこんなに尽くしてもらえるなんて。あなたたちが生まれてきたことに感謝しなければいけないわね……」
「褒めてるのか貶してるのか、見事にどっちかわかんないな」
 どちらもよ、と彼女は大真面目な顔と声で言う。
「北野くんは、会って数日の女の涙で三流ドラマの三文台詞を口にしてしまうような人よ」
「それは……言わないでよ」
 考えないようにしてたんだから。
「あなたの将来が《《不安で》》しょうがないもの。ほんの少し優しくされたり、弱いところを見せるとひょろひょろと寄っていきそうな……そんな感じがするわ」
「無駄に僕の解像度が高いね、友梨」
「人を見る目だけはあるのよ」
 じゃあ時々でいいから、僕が間違えないように教えてくれないかな、なんて言えない。
 だから選んだのだ。二曲目を。
 僕たちの出会いの歌を。
「さあ、無駄話している時間はないわよ。始めましょう」
「うん」
 ベッドに立てかけてあったギターを僕は手に取る。
 しかし楽器というものの精緻さには改めて頭が参る。それ単体で音楽を奏でられる風にできているのだから。
『私にとって音楽はしんどいものでも、つらいものでもないわ』
 実に彼女らしい。
「部屋で安静に練習する」。それならば条件に反していないと堂々と言ってのけた。日中、個室であれば多少の物音に文句を言われる筋合いはないだろうと。
 小さく小さく、だけど力強く僕らは演奏する——

「……ふう。……『負けないで』の方はほぼ問題ないと言っていいわね」
「うん、僕もだいぶと手応えを感じてるよ」
 午後四時過ぎ——
 昼食の際に多少のごたつきはあったものの、かつてなくみっちりと練習に取り組めた。
「ええ、本当に。ベースやドラムがいないのが惜しくなってきたわ」
「そりゃあね。ギターとボーカルだけじゃ、やっぱり寂しい気もするかな」
「特に間奏は味気なくなるわね……。とはいっても、さすがに北野くんにパフォーマンスを教えている暇はないし……」
 何より、常に時間はなかった。
 それぞれの実力差もあればバンドとしての経験もない分、僕らとりあえず「合わせる」ことを第一目標としていたのだ。
 はっきり言って、友梨もセッションに関しては素人に近かったかもしれない。
 当初、彼女の類稀な透き通る歌声も、僕のギターと合わせるとなったらあまりに歩調が乱れていた(僕の演奏が付け焼き刃なのを加味してもだ)。
「とにかく聴けるような演奏を」「メロディーラインに忠実に」。兼ねてよりの到達目標には限りになく近づいたように思う。
「……ひとつだけぶっ飛んだ案が、あるにはあるけど」
 その考えだけは、バンドユニットを組んでほしいと言われた時からかすかに頭に引っかかっていた。
 そして、「電話」をした時から、固まり出した。
「煮え切らない言い方ね。何を言いたいわけ?」
「もしかしたら……いや天文学的に低い確率なんだけど、協力者が増えるかも?みたいな……」
「いったいどういう——」
 と。
 ゴンゴンッ‼︎
 妙な緊張感が走っていた友梨の病室に、おおよそノックとは言い難い連打音が響く。ガラッ!
 ノックの主は、部屋主の許可が発せられる前に遠慮なく乗り込んできた。
「——クソ兄貴、いる?」
 男子顔負けに鞄を担いだ背の高い女の子が、明らかな不機嫌オーラを漂わせてずかずかと踏み込んでくる。
「もっと穏やかに入ってこれないかな——優子」
「あ゛? 誰のせいでこうなってると思ってんの?」真っ金々に染められた髪の中でひときわ輝くダークレッドのメッシュが、大きく揺らして。「あたしここに来るのに部活休んでんだけど? あと名前を呼ぶな」
 だってあだ名で呼んだら被るし、妹って呼んでも怒るじゃん、と。
 妹と非常によく似た名前を持つ僕は大いに突っ込みたいが、余計なことは言わないに限る。
「あなたが北野くんの妹さんの、優子……さん?」
「あんたがウチの兄貴をたぶらかしてるっていう友梨サンか?」
 友梨は友梨で、優子のあまりの剣幕に珍しく押され気味だった。
「えっと……別にたぶらかしてはいないけれど……」
 普段は傍若無人な彼女が、頼み込む側だからとせいいっぱい下手に出ているのが側から見てもわかったが、一方の優子は、友梨に対して露骨な敵意を隠そうともしない。
「まあ、とりあえず座りなよ優子。友梨が困ってる」
「あー、冗談だよ冗談、半分くらいはね」
 適当な調子で言う優子は、渋々と丸椅子に座る。そして、担いでいた鞄の中から布を取り出して放り投げてくる。
「わっ」
 反射的にキャッチする。広げてみると、僕の学校の女子用ブレザーだった。
 何を隠そう、僕が通う浜町高校は中高一貫で、優子は紛れもない下級生なのだ。
「一応、持ってきてあげたけどさ……あんたのこと認めたわけじゃないから」優子は偉そうに足を組んで吐き捨てるように言う。「もう少しちゃんと説明してくれないと、納得しないから」
「なんでそんな上から目線なんだよ……」
「うるさいバカ兄貴」
「はい……」
「……で、友梨サン。聞かせてもらえる?」
「構わないわ」
 友梨は改めて、細かい経緯を説明する。
 自分からの誘いでバンドユニットを組むことになったこと。明後日のイベント出演のためにずっと練習してきたこと。僕には決して無理強いをしていないということ。
「今日は私のために時間を作ってくれて、感謝しているわ」
 友梨は優子の刺々しい態度にもめげずに礼を告げた。
「あたしは別にあんたのために来たわけじゃないし……まぁ、やりたいことはわかったけども」
 淡々と倫理的に。基本的に勢い任せで会話する優子には、やりづらい相手だろう。友梨もそのことを一瞬で見抜いたのか、余裕の表情を崩してはいない。
「学校終わりに疲れたでしょう。優子さんがよければお茶菓子でおもてなしさせてもらうわ」
「え、いいよ、いいです、そんなの。あと優子さんって呼ばないで、ほんと」
「あら、なぜかしら。素敵な名前だと思うけれど」
「本気で言ってんの、あんた。兄妹につける名前が、よりにもよって優と優子って……。長男が一郎だったら長女は一子になるのかって話でしょ、普通。……あー、何話してんだろあたし。用は済んだしもう帰る!」
 頭をガシガシとわかりやすくイラついたそぶりの優子は、勢いよく立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って優子!」
「何、よ。気持ち悪い声出して」
「優子ってさ、今もドラムやってるんだよな?」
「は? いや部活やってるって言ってんじゃん」
「だよな、うん、知ってる。上手い方なの?」
「さあ。人少ないし、そもそもドラムやってる人があたし以外にいないから比べたことない……って、あんた、おい。クソ兄貴。《《これ以上あたしに何かさせようってんじゃないだろうな》》?」
「北野くん、もしかするまでもなくさっき言っていた協力者って……妹さんのこと?」
「はあーーーーーーーー⁉︎ あんたらの素人バンドに協力とか冗談きついって! 馬鹿らしい、帰る帰る!」
 今度こそとばかりに出て行こうとする優子。
「触るな! あと言ってなかったけど交通費!」
「え?」
「え?じゃねえよ。制服レンタル代も! 何をするにもさせるにもお金がいるでしょ。ここに来るのもタダじゃなかったんだけど! 後で絶対請求するから!」
「わかったわかった、払うから! 出演料も!」
 すがる僕を割と本気で蹴り付けて優子は脱出しようとする。そんなギャーギャーと迷惑な兄妹喧嘩をしている僕たちに友梨はそっと割って入る。
「問題ないわ、優子さん。出演料諸々その他、私が支払わせて頂くから」
「はい……? 友梨サンじゃなくて、こんなことに巻き込んだ兄に対して請求してるんですけど」
「その理屈で行けば彼を巻き込んだのは私でしょう」
「でも……、」
「それで、おいくらかしら。いくらであなたは動いてくれる?」
 じっと、吸い込まれるような眼差しで見つめられ、気勢を削がれた優子は、はあと大きくため息をつく。
「別に交通費……2000円くらいと、服は洗ってくれれば結構ですよ」
「承知したわ。それで、出演の方は?」
「…………あんたら、本気で言ってるわけ?」
「あなたのお兄さん、なかなか筋がいいのよ。であれば、家族であるあなたのセンスに期待するのはそこまでおかしいことかしら」
「技術については言ってないっての。ああもう来るんじゃなかった……」
「もちろん外せない用事があれば無理強いはしないわ。ただ空いているのであれば、お願いしたいと思ってる」
「お前らのとこの部活、土日ないよな?」
「うっせえ」
「痛っ」小声の僕の問いかけに、脛を思いっきり蹴ってきやがった。
「……そもそもステージは明後日なんでしょ? 練習も何もないじゃん」
「もともと急ピッチで作った《《柔らかい》》チームよ。一人増えたところでこちらが合わすことくらい訳ないわ。——頼まれてもらえないかしら」
「…………兄貴も、本気なの?」
「うん。勢いで始めたことだけど、少しでも良いものにしたいって本気で思ってる」
 友梨は一度考えを固めると、即座に言動・行動に移すことをこの短い付き合いの中でも知っている。
 彼女なら。音楽に誰よりも真摯な彼女なら、優子へまっすぐな想いを届けることができるということも。
 だから、僕も。
「頼むよ」
 優子は、ゔっ、という顔をして、それからうーんと唸ってから、
「ほんっと! 病人って、わがままだね。…………いいよ——一回だけなら」
 その返事を聞いて、やっぱり兄妹だなと口の中だけでつぶやいて。
「元より、そのつもりだっての」

 ただ、ドラマーを引き入れるにあたって、至極単純で大きな問題があった。
「あー…………でも演奏するのはいいとしてさ、一番は機材の問題だよね」
「そこなんだよな。運ぶのに一苦労だし、僕が出ていくわけにもいかないし……」
「いやそれ以前の問題。ドラム自体がない」
 優子はあっけらかんと言った。
「え、でも中学でやってるんだろ?」
「《《中学の中で》》ね。不純な動機とはいえ兄貴も音楽かじってたならわかんでしょ。楽器ってめちゃくちゃ高いから」
「その通りね。特にドラムであれば安くても一〇万を下らないわ」
「マジ? そんなするの?」
「そ。学校の機材をこんな私的な理由で持ち出せるわけないじゃん。バイトすらできない中坊に自前のドラムなんて期待する方が間違ってるでしょうが」
 もっともすぎる理屈だったが、さっそく新メンバー加入事案が空中分解の危機だった。
「じゃあ、無理なんじゃ?」
「無理かもね」
「無理じゃないわ」
 ここでも、割り込んできたのは友梨だった。
「ごく一般的に使われているドラムであれば私、持ってるもの」
「「……なんで持ってるの?」」
「こういう時のためよ。優子さんみたいに技術はあっても自由に弾けない人がメンバーになった際、貸し出せるようにね」
 用意周到すぎる。
「っ……マジか。結局、機材がないからできませんってなると思ってたのに」
 そして一方で、妹の本気の舌打ちを聞いた。
 我が妹ながら姑息すぎてちょっと引く。
「近くの貸し倉庫にしまってあるから、取りに行く必要があるけれど。メンテナンスは欠かしていないからすぐに演奏できるわよ」
「それはありがたい話だけど……その、すごくお金かかってない? いろいろ」
 下世話な話だが、働こうにも病院を離れられないであろう友梨。父親の稼ぎは悪くないと言っていたが、「にしても」だ。
「私、こう見えてそれなりの稼ぎがあるのよ。部屋から一歩も出ずに稼ぐ手段なんて、今はいくらでもあるでしょう」
 言って友梨は、そっとパソコンを撫でた。
 作曲とか、儲かるわよ? と。
 つい兄妹で顔を見合わせて、すげーってなった。
「はあ……わかったって。参りました。覚悟決めた。……で、ZARDとやらの何を引くわけ?」
 ついぞ優子は諦めた表情で、話を次に進める。
 これとこれだけど、と友梨が歌詞付きの楽譜を引っ張り出してきた。優子はペラペラと楽譜を捲りつつ、気づいたような声を出す。
「…………一曲目はこれね。有名だし安パイか。二曲目は知らないな….…」
「その二曲目は北野くんのチョイスよ」
 友梨がここぞとばかりに口添える。
「ふーん……、なんでこんな辛気臭い曲にしたわけ?」
「なっ、辛気臭いはないだろ……」
「二つの歌詞の温度差が激しいっていうか……原曲聴いてみないとわからないけどさ」
「たっぷりと聴いてくれ」
 良い曲だよ。寂しいけど。
 それから三人で、音源を流しながら《《どういう演奏にするか》》という話を進めた。
 妹が軽音楽部で活動していることくらいはそりゃあ知ってはいたが、例のごとく家で練習できるはずもないので演奏している姿を一度すら見たことがない。
 というわけで、活動記録と勉強用にと撮影していた演奏時の動画(この時点ですごく偉い)を、観た。
 演奏曲は、曲名は知らないけど耳にしたことがあるくらいのJ-POP。
 友梨の反応的に演奏レベル自体は中学生相応なのだろうが、それでも僕みたいな人間からすると十分に上手く感じた。
 それを素直に伝えてみたところ、優子は「やっぱ消せ、消して」と騒ぎ立てていたが(友梨のパソコンで映像を観るため、友梨のスマホにそのデータを送っていたからだ。ちなみにこれで、僕よりも先に優子が友梨と連絡先を交換したことになる)。
 ともあれ、
 セッションに慣れている優子であれば、明日一日でどうにかなるだろうと改めて結論が出た。
「……とりあえず、今日は来てくれてありがとう。いろいろと助かったよ」
「ああ、うん。その感謝、ちょっとでも両親に分けてあげれば」
「……はい」
 ごもっともすぎる。退院したら、なんか、しよう。バイトでもして。
「んじゃ、あたしはそろそろ帰るから。夜、友達と約束あるし」
「確かにもういい時間…………そうね。あまり遅くなってもいけないし……一度、合わせるだけにしておきましょうか」
「「はい?」」
 兄妹同時に友梨の言葉に耳を疑う。
「今、どこに機材があるんだって話をしてなかった?」
「雰囲気だけでも、ね。……はいこれ」
 ガサゴソとコンビニ袋のようなものから友梨が取り出したものは、スナックの箱やペットボトル、空き缶などの「ゴミ」だった。
「ほら、YouTubeとかによく上がってるじゃない? 『お菓子のゴミで叩いてみた』的なやつ」
「ふざけてんの……?」
 汚いものを恐る恐る触るかのように、優子は菓子箱を指で摘んで持ち上げる。中身は当然、空だ。
「実は北野くんに弾かせてみようと用意していたのだけど、やっぱりなんか違うなって。ただ捨てるのももったいないと思って」
 要するに、ふざけていた。
 ドラムスティックは割り箸でどうかしら、という友梨の追撃を弾き飛ばして、「ばーか」と言い残すと、優子は足早に去っていった。
「良い子ね」
「まぁね」

 その晩、僕は、きょうび余ることの多くなった十円玉を余すことなく使って、再び緑の電話へと相対していた。
 相手は竹馬の悪友(大袈裟かな?)である大場だ。友達と連絡を取るのにボタン一つで事足りる今この頃だが、そのためはスマートフォン、またはそれに類する機器が必要不可欠だ。
 感情の乏しい美人看護師の策略によって文明の利器を奪われている僕は、二重三重にも遠回りをする羽目になった。
 まず改めて、優子に電話をかける。
 当然散々な文句を吐き出す彼女をなだめつつ、僕のスマホを操作してもらうように頼む。もちろんその場合、年頃の男子高校生のスマホを家族に無防備な状態で託すことになるわけで、精神的な負担は計り知れない(しかも余計なことをしていないかを確認する術すらない)。
 そこから優子に大場へ連絡してもらい、電話番号を聞き出す。これでようやく僕が直接、大場へと電話できるようになるのだ。
『なに、ついに妹紹介してくれる気になったってわけか?』
 電話がつながった先、大場の第一声がそれだった。
「まだ早いかな、まだ」
 奴のにやにやとした表情が目に浮かぶその声に、受け流すでもなく、しみじみと考えてから答える。
 実際のところ優子の将来については、北野家でもかなり憂うべき問題として挙げられている。
 風紀に緩くエスカレーター式の学校であることをいいことにバリバリに「仕上がっている」優子の風貌ではあるが、それ以上に喧嘩っ早いのがいけない。
 小中と、同級生の女の子は元より男すら泣かせたことも数しれない(もちろん物理的にだ。怖い)。
 比較的に縦にも横にもでかい大場なら肉体的な面でも安心だ。
「それより優子から説明受けなかったのか?」
「んー、兄貴から聞けとだけ。……面倒事ならお断りだぜ」
 その発言が一〇〇パーセントひっくり返ることがわかって思わず笑ってしまう。
「そうか……まぁ面倒な頼み事だからなあ。優子が使うドラムを運んでほしかったんだけど」
「ふむ、その話詳しく聞かせてもらえるかね」
 気だるげな声はどこへやら、電話の向こうで姿勢を正す音まで聞こえてきた。
 若干引きながらも、行きずりの友達(あえて女の子という必要はない。そうだろ?)に優子がドラムを叩いていることや、例のライブに協力してくれることを懇切丁寧に伝える。ふーん、俺も見に行こうかな、なんて言いだしやがったが、断じて拒否しておいた。無駄だろうけれども。
「要は、お前んとこの入院先に優子ちゃんのドラムを搬入すりゃいいんだな」
「そゆこと」
「しっかし北野も物好きだよな。普通、素人が即興のユニットに誘われてOKするかよ」
「本当に暇すぎたからね……つい。あと、あんまり大声では言えないんだけどさ」
 詳しい病状は伏せたものの、友梨はあまり体調が良くない子なのだと、伝えた。なんとなく言っておきたかったのだ。
「……同情したからか?」
 ふと、大場が言った。
「え?」
「いや、その病弱な奴と北野の関係を全く知らねえからあれだけどさ。変な意味じゃなくて、お前がやりたいならいいんだぜ? でもそいつのこと話す時、妙に歯切れが悪いからよ」
 ああ、そう、捉えられたか。
「同情して付き合ってわけじゃないよ、断じて。そもそもそれを知ったの、ほんの最近だし」
 順序が逆だ。
 そしてそれで、本当に良かったと思う。彼女の想いを知る前に、彼女の境遇を知ってしまっていたら、きっと僕は断ってしまっていただろうから。
 いきなり背負えないよって。
 順番ってやつは本当に大事だ。
「同情なんか、ごめんだろうさ」
 彼女は、きっと。

第5話「永遠」

 それは僕が意識を取り戻した夜のことだった。
「よかった。本当によかった……」
 ベッドの脇で崩れ落ちるように泣く母さん、ずっと感情を押し殺したような顔をしている父さん。ブスッとした声でもう帰ろうよと文句を言う優子。
 何が起きているのかをいまいち把握していなかった僕。
 命に別状がないことがわかって、とりあえずの入院が確定したあの夜の僕は、何も考える気にならなかった。考えられなかった。
 そんな夜だった。
 もともと病室にあった備え付けのラジカセから、ZARDのメドレーが流れたのは。
 偶然だ。母さんが持ってきていたのは確かだが、僕が聴こうとしたわけじゃない。村上さんがかけてくれたのだ。気分転換に音楽はいいよ、と。
 …………なぜだか涙が止まらなくなった。
 自分の惨状を知った時、以上に込み上げてくるものがあった。
 下手すれば、声も漏れ聞こえているかもしれない、くらいに。
 あの時あなたが泣いていたから、と。
 そんな僕と己を重ね合わせた友梨は、僕を誘ったのだと。
 ——涙は流しておくものだ。
 

 夜が明けた。
 大場が優子を怒らした。
 それはもう、天地がひっくりかえるほどの大激怒だった。
 一応、大場の名誉のために言っておくと、たぶん大場はそこまで悪くないと思う。というより仕方ない、か。
 ドラムどころかリコーダー以外の楽器を持ったことのないと供述している大場は、意気揚々とドラムの本体だけを運んでいって、スティックがないわよとブチギレられたそうだ。
 兄貴の友達とはいえ初対面の年上にガチギレできる優子も大概だが、何より電車で一時間をもう一往復する羽目になった可哀想な大場はすっかり縮み上がって、「俺に結婚は向いてないかもしれねえ」と明かしていた。……言葉として並べてみると、図体の割には臆病な奴だ。
 肩を小さくして帰っていく大場を適当に見送り、相変わらず味気の薄い飯をなんとか平らげた後、屋上に納品されたドラムを見にいく。すっかり昼を回ってしまったが、どこまで練習できるか……優子の腕を信じるしかない。
 六度目の屋上ではパラソルの下、友梨と優子が向かい合って座っていた。自分で持ってきたのか、それともやはり大場をこき使ったのか、優子は簡素なパイプ椅子に腰掛け——なぜか睨み合っていた。
「少し速いわ。最初は合ってるのに、だんだん早くなってるわ」
「いちいちほんとうるさいなぁ、あんた。こんな古臭い曲、一回や二回で完璧にできるわけないじゃん」
「私、喧嘩を売られたのは初めてなのだけど、買ってみようかしら」
「はあ? そんな私よりヒョロっちい体でどう殴り合おうってわけ?」
 おい待て優子よ。なぜ君はすぐ拳を握る。
 しかし友梨もさる者、その発言を待っていたと言わんばかりに涼しい顔にほんのりと微笑みを浮かべ、「中学生にはわからないかしら? 何も暴力だけじゃないのよ。私は法的に戦うわ」
 たとえば、と友梨は、
「今、練習のためにあらゆる音を録音しているけれど、結構お高い機器を使っているから集音声抜群よ。あなたが私に投げつけてきた暴言の数々もしっかりと収められてるでしょうね」
「だから……なんなのさ」
「学校で習わなかったのかしら。もしかして不良サン? 最近は誹謗中傷に対する取り締まりの厳しさは——」
「ストップ友梨、あんまり虐めてあげないでよ。喧嘩っ早いのは謝るからさ」
 このままだと一生、理論武装と暴言の争いが終わらないような気がした。
「遅いんだよ、兄貴。ずっと友梨サンの堅っ苦しい話に付き合わされてたんだけど」
「あら、私は楽しかったわよ。シュミレートションゲームみたいで」
 僕は、友梨を引き入れたことを、非常に心底後悔し始めていた。
 しかし賽は投げられた。
 この三人でやると決めた以上、どうにかして三人の形にせねばなるまい。
 どうにかこうにか一六年——いや一四年の妹に対する知恵を振り絞って宥めつつ、練習を開始する。面白いことに二人とも、演奏中は至極真剣な表情をしているくせに曲が止まるとあーだこーだとぶつかり合う。
 だけどそれも、連帯になるために必要なことなのかもしれないと思う。
 土曜日の午後は瞬く間に過ぎていき——、
 晴れ舞台が、始まる。

 六月の空はひどく青い。
 しかし同じく青かった僕の心は、なぜだか薄く滲んでいる。
 年に一度の慰問会が行われる植松病院の棟々が囲う中庭は、病院患者で賑わっていた。今までどこにいたんだと感じるくらいに大量の看護師さんが出動しており、高齢患者の引率をしたり、車椅子を押したりと、忙しなく動いていた。
 あの村上さんが僕にちょっかいをかけるでもなくテキパキと中庭を駆け回っている姿は、少しかっこよく見えた。
 せいいっぱい楽しむんだよ。
 勇気の言葉は昨日の夜、もらっている。プレッシャーに負けないでね。と。
 そんな風に、二階の窓から観察していると、
「ちゃんと起きてるわけ?」
 雑な声をノック代わりに、優子がどたどたと病室に入ってきた。もう少し静かに、と思うが、そういえば他の患者は今まさに中庭にいる。
「起きてるよ。……今日は晴れてよかった」
「まぁね。でも、熱くなるでしょ。あの女大丈夫なの?」
 ぶっきらぼうなようでいて、必ず聞いておかなければという声。優子らしい。
「大丈夫、従来なら有志の演奏は二時ぐらいかららしかったんだけど、なるべく陽が落ちた最後の方へと回してもらったみたいだから」
「どんな権力持ってんのよ、あいつ」
「さぁね」
 ただ、子供のわがままを聞いてくれる人が、意外といるんだろう。
「それそうと夕方かぁ、こんな朝っぱらから来るんじゃなかったな……」
「別にライブだけじゃないんだし、慰問会観てれば?」
「いやごめんだし。年寄りが好きな芸人とか演奏とか、面白いわけないから。……ちょっと屋上で叩いてくる。今日の演奏のためのスティック、まだ使い慣れてないし」
 一方的に言って、優子はドタドタと飛び出していった。
 僕は当然初めて知ったのだが、ドラムのスティックもなんでもいいわけじゃないらしく、太さや長さなどによって相当感覚が変わってくるらしい。
 自由な校風(笑)をいいことに、髪の毛をたいそう面白い色に染めている優子だが、それが男と派手に遊びまわるためじゃなくて、自らの想う音楽をするためだということを知っている。
 優子が努力してきたことは知っている。
 でも……優子が輝いている姿を未だ見たことがない。
 まだまだ中学二年生の優子が、軽音部の先輩たちを差し置いてステージに立つほどの腕前じゃない(そもそもドラムを必要としていないのかも?)のも、わかる。友梨の反応を見ていても、そうなのだろう。
 だから、と思った。
 だからこそ、たとえ成り行きで取り留めのないユニットの、一瞬の時間だとしても——ステージに立ってほしいと。
 …………なんとなくで、一度音楽を簡単に辞めてしまった僕は思う。
「楽しもうな、優子」

 慰問会はつつがなく進んだ。
 僕の病室はコの字型に並ぶ病室の中央部分(南棟)のため、ステージがよく見える。
 落語家、師匠だなんだと呼ばれる芸人、紅白に出てくるような演歌歌手、優子が興味ないと一蹴することも共感できる面々が次々とステージに立って、それぞれの役目を全うする。
 ……はっきり言って、僕も少々退屈に感じたが、でも友梨と出会わなかった僕だったら、何もない中での唯一の娯楽として大いに有り難がっただろう。
 そうならなくてよかった。
 これをつまらないと思えて、よかった。
 今、が、一番面白く感じて——よかったと。思う。想う。
「最終許可、ちゃんと出た?」
 窓のガラス越し、薄く映る線の細い長身に問いかける。
「ええ。かなり億劫な検査だったけど……この日を得るためには安いものね」
「そうだね。たった一週間だけど、頑張ったしな」
「緊張してる?」友梨は珍しく、優しく言う。
「まぁね」僕は誤魔化すでもなく答えた。
 そうだ。絶対、誰だって緊張する。
 優子だって、友梨も絶対に緊張している。
 だからこうやって行ったり来たり、僕はひたすらに何かを観ていたり。
「あなたたちは、ノアの方舟にでも乗ったつもりでいるといいわ。私の圧倒的な歌声の前では多少のミスなんて些細なものよ」
「最大級の売り文句だね。頼もしいよ」
「優子さんは?」
「屋上。今と、同じ言葉をかけてあげたら?」
「同じ言葉を使うのは芸がないわよ。でも、そうね。屋上に行くまでに適当な慣用句が思いつかなかったら、食堂でお昼を食べましょう」
 三人でね。
 友梨は、これまでで一番優しい声を出した。

 午前の部を跨いで、僕たちがちょうど昼食を食べ終えたところで、午後の部が始まった。
 老人好きする演者の方々の出番はほどほどとなり、地域連携というやつなのか地元の小学生や中学生が踊りや寸劇などを披露していた。
 正午を回り、熱くなってきたためか、中庭にいる人数は多少目減りしたものの、先ほどの僕と同じく病棟の窓からステージを見守っている患者が多い。
 まだ、もうちょっと! と音源を聴きながら最後の詰め込みをしている優子を「もう十分だよ」と嗜めつつ、自分たちの出番を待つ。
 午後の部は、午前の部の数倍早く時間を感じた。
 ついに出番が巡ってくる直前、舞台裏。北野家は兄妹揃って表情筋をガチガチに強張らせていたが(優子が自分を差し置いて思いっきり嘲笑ってきた)、友梨だけは違った。
 合格発表の前に結果がわかっている受験生みたいな、今に名を呼ばれるのを期待している顔なのだ。
「そういや……あたしたちのユニット名はどうしたんだっけ? 無名?」
 優子が思い立ったように呟く。
 こいつ……相変わらず話聞いてないなぁ。
「もちろん決めてあるわよ。一度だけの、一夜限りの舞台なのだから——」
「素敵なマジックをありがとうございました〜」同時に、観客のまばらな拍手と司会のはつらつとした声が飛ぶ。「それでは次は〜、お、なんと、若い患者様方が皆さんを勇気づけたいと楽曲を披露してくれるそうです! 高校生の即興バンド! いいですね〜。えーと、チーム名は——」

 WIZARD。

「魅了するわよ」
「痛ったいなぁ」
「はは……」
 最後の戯言を吐いた後、僕たちはステージへと飛び出す。
 散々、観てきた地域イベントらしいちゃちなステージはしかし、登ってみればとても高い場所だった。
 せいぜい僕の身長より低いくらいの段差なのに、はるかに特別な場所に感じる。
 動揺を紛らわすべく機材の調整に真剣に(見えるように)取り掛かっていると、友梨がちょんちょんと僕の肩を引っ掛けた。
「お友達?が来てるんじゃないかしら」
「へ?」と友梨の指さす方向を見やると、
 大場がいた。
 大場がいやがった。それだけではない。吉田と浅井もいる。名前はもちろん知らないけれど、信号機みたいな髪色の中等部の女子もいる。優子の友達だろう。
 それをいいことに、優子に話しかける。「友達、来てるよ」なんとかして落ち着きたかった。
「そっちこそ」優子は唾を飲み込みながら、「アホ面が増えてるじゃん」
 そうやって掛け合ったことで、ほんの少しだけ緊張がほぐれたような気がした。
「準備はいいかしら?」
 ふと、友梨が言う。
 そうだ。いくら歌唱力で引っ張っていってくれるとはいえ、ファーストステップは僕たちが踏まなければならない。
 特に『負けないで』は前奏が噛み合うことで一気に世界観へと引き込む曲だ。
 友梨の方を見る。見てしまう。
 ——私、今、最高に幸せよ。
 覚悟が決まった。

 ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォー。

 優子の合図とともに、僕の固まっていた指が紹介していく。
 ジャー、ジャージャン、ジャジャジャジャーン、ジャージャージャジャジャジャジャジャジャ、ジャジャジャン!
 もう心配はいらなかった。
 その先には、友梨がいる。

「ふとした瞬間に 視線がぶつかる
 幸福のときめき 覚えているでしょ
 パステルカラーの季節に恋した 
 あの日のように 輝いている あなたでいてね——」
 
 ジャジャジャジャ、ジャジャジャン!

「負けないで もう少し
 最後まで 走り抜けて」

 友梨のあの、どこまでも透明で力のこもった歌が中庭に響き渡る。
 おお——
 歌詞の合間に、歓声と感嘆の中間の声が洩れ聞こえてくる。
 時を忘れて。僕たちは歌った。
 僕も、優子も気付けば歌っていた。

『負けないで ほらそこに
 ゴールは近づいてる
 どんなに 離れててても
 心は そばにいるわ
 感じてね 見つめる瞳——』

 気づけば、演奏が終わっていた。
 ワァ、と。
 中庭に拍手が響き渡る。うおおおっ。最前列の友人たちからエールが届く。
 前のマジックとどっちが大きかったかとか、わからないし関係ない。ただ、心地よかった。
「最高よ、北野くん、優子さん」
 友梨が、額からつー、と汗を一筋流して、言う。
「次も、全力でやり切るわよ」
 優子と顔を見合わせて頷く。
 友梨がマイクを、口元へと寄せる。

「——ありがとうございます。
 二曲目は——『グロリアスマインド』」

 僕たちの、そしてこの歌を歌った彼女の最後の曲。

「グロリアスマインド グロリアススカイ
 おもいきり泣いたら
 昨日までの事は全部忘れよう」

 これは僕が選んだ曲だ。
 何より、僕たちにぴったりの曲だと思った。

「Seaside moon,Seaside Sky——」

 友梨の歌唱力を最大限に発揮できるような曲であること。
 優子が少ない練習でも合わせやすいような曲であること。
 前付けも後付けも、色々ある。

「グロリアスマインド グロリアススカイ
 おもいきり泣いたら
 昨日までの事は全部忘れよう」

 でも、一番は、
 出会いには別れがあるということ。
 残酷なのだろうか。
 独りよがりなのだろうか。

 でも、友梨に歌ってほしかった。

「——ココロをもう一度君届けたい
 グロリアスマインド」

『グロリアスマインド』も、瞬く間に終わった。
 終わってしまった。
 二度目の歓声を耳に、僕はそう思った。
 唐突なスケジュールと少ない練習時間の中、限りなく良い演奏だったはずだ。友梨はともかくとして、僕と優子の奏でる音にはそりゃ多少の粗はあったけど、成功か失敗かは目の前の光景が答えだ。

 最高の気分、になるはずだった。
 いや最高の気分だ。
 最高に楽しかった。
 けど、

 永遠に詠っていたい。

 きっと、僕たちの中にあるのはそれだけだった。

 盛況のステージを後にし、僕たちの一日は終わった。
 もちろんそうだ。どこからともなく看護師さんが現れて友梨を連れていく。もはや万全の状態の僕と違って、友梨は爆弾なのだ。
 そういうわけで、派手に打ち上げなどするわけもなく、優子と別れ、僕は病室に戻った。
 ぼーっと余韻に浸っている僕を目ざとく見つけた村上さんが、二、三回廊下を往復した後、ひょこっと病室へ入ってきた。
「良かったよ、演奏」
「ありがとうございます。見てくれてたんですね」
「ちょっとだけだけどね。君たちの笑顔はばっちりと見れたよ」
 妹さんのもね、と村上さんは目をぱちくりとさせて言った。
「いよいよ終わっちゃいました」
「そうだね。明日には君ともバイバイになるんだ。寂しいなぁ」
 ふと、彼女の顔に影がさす。
「患者さんとの別れなんて、慣れてるんじゃないですか?」
「そりゃあね。良くも悪くも、別れの日々だ。君は良い方の別れだけれど」
「……すみません、無神経でした」
「いいよ。まだまだ子供なんだから」村上さんは大人の声で言う。「友梨ちゃんとも、お別れは済ませた?」
「…………友梨は、大丈夫だったんですか」
 渾身の想いを込めているとはいえ、せいぜい二曲の歌唱披露。屋上での練習を見ていれば、体力的に問題があるようには思えない。
 だけど、心は。
 あの、友梨にとっては、夢のような舞台。夢であった舞台。
 あの澄ましたポーカーフェイスの内側で、深脈はどうたぎっていたのか。
「大丈夫。そりゃあもちろん、病院側はあんなことさせて何かあったら大変なことになるからね。神経を尖らせるけどね。問題は……ないよ、今日は」
 ぽつりと……付け足す村上さん。
 なんの問題ですかとは聞かない。開きかけた口を閉じる。
 看護師がどういう立場の人間かは、この一〇日間でよくわかった。言いたくても言えない。伝えたくても伝えられない。
 だから、

「言いたいことは、今のうちに言っておきなよ」

 とても、
 その言葉は、僕に勇気をくれた。

 ほんのちょっと……一〇分くらいなら時間を作れると思うから。
 村上さんはそう言って、仕事へと戻っていった。
 そうして、夜九時前、OKマークを携えてきた村上さんに連れられ、友梨の病室がある棟へと向かった。
 当たり前だが、僕がいた棟と様装が変わっているわけもなく、せいぜい部屋ごとの間隔が広いくらいだ。
 けれど決して、どこか空気が淀んでいるのは気のせいではないのだろう。
 四二七号室。
 コンコンとノックすると、「どうぞ」と友梨の声。
「じゃあ、外で待ってるから」
 村上さんの声を背に、友梨の病室へと入る。
 変な話だが、病衣姿でベッドの枕へと腰をかけている友梨を見て、本当に病人なんだなという感覚を抱く。
 ずっとずっと、彼女の輝かしい部分だけを目にしていたから。知っていたとはいえ、つい。
「今日は、お疲れ」
 当たり障りのない切り口。
「お疲れ様。わざわざ時間を使って、どうしたのかしら?」
 いたずらっぽくそう口にする友梨は、絶対に僕が何を言いにきたのか気づいている。
 でも、この反応を見るに友梨の方から切り出すことはなさそうだ。
「なんというか、ありがとう」
 言いたいことをさておき、伝えておくべきことに逃げてしまう。
「優子の奴も、なんだかんだ言ってすごく楽しそうだったし。ほら、観客の前に立っての演奏なんてしたことなかったみたいだからさ」
「こちらこそ、よ。優子サンのおかげで、私がやりたかった音楽がより強く形になった。本当に、あなたたちには感謝し足りないわ」
「今日はなんだか友梨、言葉が優しいね」
「そうかしら。そう感じるのは、どうしてだと思う?」
 逃げてばかりじゃ、いけない。
「最後だから?」
「……まぁ、最後くらいは良い女として認識されたいと思ったのよ」
 最後。
 どうしても、その言葉は重い。
「僕は最後に、したくないよ」
「それは……私もそうよ。けれど終わりは来る。必ず。必ずよ北野くん。あなたは明日、病院の住人ではなくなるの」
「わかってるよ。だからさ、また来るから」僕は、勢いに任せて、「お見舞いに来るよ。別に、ステージに立てなくてもいいから屋上で練習したみたいに、たまに一緒に演奏しようよ。なるべく優子も引っ張ってくるし、家からもそんなに近くないし、」
 うまく言葉を繋げない。
 伝える言葉を形にしようとして、ほどけ落ちていく。
「私は——」
 友梨が、
 諭すように唇を動かす。
「私も、もうすぐここを出るわ。当然退院ではなくて……海外に、私の手術をやってもいいって言ってくれる人がいるらしいのよ」
 お父さんが必死に見つけてきてくれて、と友梨は。
「こう見えて何度か手術してるから、……外科手術にそもそも絶対に成功するなんて保証はないのだけど、父の努力に、医者の勇気に、私も覚悟を決めたわ」
「そっか……」
 手術、という選択肢も彼女が海外へ発つという話ももちろん初めて聞いたが、不思議と純然たる現実として僕の中に吸い込まれていった。
 最後の、願い。
 こんな不安定な自分の無茶な願いを、周りは全力で支えて、叶えて。
 だがらそれに報いるために、自分は戦うのだと、友梨は言った。
「帰ってくるんだよね?」
 無粋な問いだろう。わかってるよ。
 けど、聞いてしまうだろう……
「当たり前よ。私、洋楽はあまり好みじゃないの」
 どこまで言ってもおどけてみせる友梨に、僕も自然に口角が上がる。
 うん。
 最後でも、最後じゃなくても別れる時は笑顔の方がいい。
「じゃあ、またね」
「ええ、また」

 連絡先は、一応、交換した。
 SNSや通話アプリじゃなくて、電話番号だけを。
 互いが、どうしても連絡を取りたくなった時にだけ使おうという約束を交わして。

 あれから七年。
 僕が電話をかけることも、彼女から電話がかかってくることもなかった。

エピローグ「負けないで」

「まー、そう落ち込むなって! 人生終わるってわけじゃあるまいしよー!」
「おいおい、そんなあっさーい慰めで吹っ切れるわけねえだろうよ、なあ、優?」
 浅井がジョッキを叩きつけて唾を飛ばす一方で、その隣の吉田が馬鹿にし腐った酔いどれ顔で、バンバンと浅井の肩を叩いている。
「あぁ? じゃあ何言えばいいってんだよ。飲め飲め。馬鹿野郎!」
 そうして押し付けられてきたジョッキに軽く自らのグラスをかち合わせる。カクテルが揺れて、机に小さくシミを作った。
「けど言っても俺も、内定出たとはいえ第八希望レベルの会社だしなぁ。もうちょっと就活は続けるかなぁ」
 大場が己のリクルートスーツの襟を掴んで、をしみじみとした声で言う。
「マジ? おまっ、散々解放されたーって、喜んでたじゃねえか。今日行けるかって誘ってきたのも大場だしよ。真面目だねぇ」
「いやいや、晶は確かに限りなく馬鹿だが、今回ばかりは馬鹿じゃないぞ。断言する。就活は絶対に全力を出した方がいい」
 そう口にするのは高卒で就職した吉田だ。
「万が一にも大卒なんだし、労基と常にバトってるような会社に行きたくなけりゃな」
「おうおう、余計な言葉がくっついてる気がするがありがたくアドバイス受け取っとくぜ」
「つーか、大場テメェ。北野の妹との件はどうなったんだ、おい。なんか進展あったんか」吉田がターゲットを大場に切り替えた。
「は、なんでわざわざ説明しなくちゃならねえんだよ。関係ないだろ。……北野の前だし」
「確か晶がノリで入った大学の軽音部で再開したってとこで、いつも話は止まるよな。ぶっちゃけどこまで行ってるわけ?」
「浅井テメェ、この! 北野、間に受けるなよ⁉︎ 断じて変なことはしてねえからな⁉︎」
 大場たちがわちゃわちゃと騒いでいるのをどこか俯瞰した位置から眺めていた僕は、いきなり話を振られて、つい反射的に喋ってしまう。
「えー、でも大場は高校の時からずっと優子のこと紹介してくれって言ってたし、むしろ嬉しいんじゃないの?」
「いや、それはだなっ……」
「おっとー、これはどう思いますか浅井退院」
「うーん。九・一でクロだな」
 大学卒業まで一年を切った夏の手前。
 街の居酒屋。
 なんの気なしに集まった高校の同級生同士、未来に向けての戯言を繰り広げていた。
 都会の中堅私立文系になんとか滑り込んだ僕は、それなりに友達もできて、そこそこの楽しい日々を送ってきて、就活という壁にぶち当たっている。
 普通の、大学生だ。
 この三年余りで彼女もできなかったけど……、それも、別に特別珍しくはないだろう。
 心の何処かにぽっかりとかけているもの、そのせいにするつもりはないけれど、どうしても進めないこともあるものだ。
 友梨。
 魅了されてしまった。惹き込まれてしまった。
 あの一〇日間は一〇年にも等しかった。
 あの七色のわずかな日々の僕たちの関係に愛情らしきものがあったなんて言えないけれど、それでも僕は友梨のことを好きになっていたのだと思う。
 知ってか知らずか、きっとどちらでもないだろうが、あの忘れることのないライブの後、友梨との関係をそれこそ大葉たちには散々囃し立てられたりした。しかし……僕の悲哀が滲み出ていたのだろうか。次第に話題にすら上らなくなった。
 彼女と交わした電話番号、はっきりと、正確に記憶している。その数字列を端末に表示させたことは一度や二度じゃ効かない。だけど、コールボタンを押すことはついぞなかった。
 仮にかかったとて、かける言葉もだんだん思い出せなくなっていった。
 ——でももう、彼女に会うことはないだろう。

 会計を済ませ、家の方向が違う僕は大場たちと別れた。
 それぞれ明日に予定がある週末の夜、解散は少々早めの夜九時過ぎだ。同じような考えの大学生や社会人が、駅前に雑多に溢れている。
「どうするかなぁ」
 小さく、呟く。
 十数社は落ちて当たり前。就活市場において、こういう言葉は珍しくない。
 なんてことのないまだまだ六月。時間が有り余るとは言わないけれど、どうにかなりそうな気はする。大学受験もそうだった。
 でもやっぱりその十数回、自分というものを否定されるのは少々堪えた。
 なんてことのない苦労。誰もが抱えるはずの壁とわかってはいても、辟易とする。
「つらいなぁ」
 だから小さく、口に出してしまう。
 駅前。歩む先、人だかりが増えていく。その人垣に合わせて、聞き馴染みのある、腐るほど聞いた“歌”が聞こえてきた。

「負けないで、もう少し」

 僕は、振り返った。

Fin.

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